全てのバプテスマ(洗礼)は神に認識されている訳ではありません
神からの説教師として、人生の歩みからの人々が私のところにやって来て、彼らの救いに関わる必要不可欠な質問をします。時には、彼らが同じような質問をすることもありますが、特に真実を求めているのであれば、私は彼らに聖書に基づいて答えを出すのに飽きたりはしません。聖霊の仲介を通して、彼らが悟れることを願いながら彼らに答える道徳的義務があると私は感じています。
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ペトロ 一 3:15
むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
最もよく寄せられる質問の1つはバプテスマに関するものです。具体的には、彼らは、彼らが以前の宗教で既にバプテスマを受けていたことを考えると、彼らがChurch of God International(国際的・神の教会)の会員になりたい時、再びバプテスマを受ける必要がまだあるかどうかを彼らが特に調べたいことです。
この質問に対して、私の率直な答えは、聖書が教えていることと一致しない方法でバプテスマを受けたならば、そのバプテスマは何の意味もないということです。
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マルコ 7:7
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
過去にあなたが受けたことが単に人の教えと戒めのものであったならば、あなたが神への崇拝を含めて、あなたが宗教の名のもとで行うことはすべて無駄であると考えられます。
繰り返しますが、あなたが偽の説教者の犠牲になったことで、あなたが人の教え、戒め、そして教義の信奉者になったならば、救済されるのに高度なる行いである「創造主への崇拝」すら無駄となります。
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マルコ 7:7
彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
「もう一度バプテスマを受ける」という言葉は、あなたが本当にバプテスマを受けた場合のみで有効です。あなたが最初に受けたバプテスマが、神によって認められている種類のバプテスマであるならば、それが再バプテスマ、または再びバプテスマを受けることになると言えます。
しかし、あなたが受け取ったものが無駄な、あるいは価値のないものであるならば、受けた事として数えられないままなので、「再びバプテスマを受ける」ことを用いるのは論理的で文法的でさえありません。人の教義や戒めを教える教会であなたがバプテスマを受けたならば、あなたのバプテスマは神によって認められていません。
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エフェソ 4:4
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
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エフェソ 4:5
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
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エフェソ 4:6
すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。
あなたは使徒パウロが物事を強調した方法に気づかなければなりません。彼は繰り返して「一つ」を使った。一つの体と一つの霊があります。一つの体は教会です。
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コロサイ 1:18
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
エペソ 4:4に述べられている「からだ」は教会を表しているのは確かです。一つの体と一つの霊があります。どのような霊ですか? ヤコブによると、
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ヤコブ 2:26
たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
それは何もありません。同じように、行いなしの信仰もまた死んでいます。
「あなたがたの呼びかけ、主が、信仰が、バプテスマが一つの希望で呼ばれているように。」
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エフェソ 4:4
からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
「真」という言葉は聖句にはありませんが、使徒パウロが列挙したものはすべて救いに関する真のものです。一つの「からだ」、一つの霊、一つの希望、一つの主、一つの信仰、一つの洗礼 - それらはすべてその「からだ」の中にあります。
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コリント 一 12:13
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。
それが使徒パウロの1世紀のクリスチャンへの宣言でした。全て「からだ」の中にあります。救いと礼拝に関連するものは全てその「からだ」の中にあり、それが聖書の真の教会です。さて、もしあなたがその「からだ」の外でバプテスマを受けたのなら、私は率直に言います。あなたのバプテスマは何もないものです。
実際には、あなたはまだバプテスマを受けていないことになっているので、私達は再バプテスマを用いることはできません。本当のバプテスマをまだ受けていないので、あなたが再びバプテスマを受けると言うのは不適切です。
聖書的に言えば、あなたが間違った司法権で、あるいは間違った教会からバプテスマを受けた場合、あなたのバプテスマは無効です。実際には、あなたは何も受け取りませんでしたからね。
私たちは常に聖書に訓育されなければなりません。私たちは聖書の範囲外を考えないようにしましょう、その代わりに私たちは常にその範囲の中にいるべきです。そして、聖書によれば、真のバプテスマは一つであり、それは神の教会である「からだ」の中にあります。
実際、教会名でさえ真実を綴っています。例えば、あなたの教会の名前が「セブンスデイアドベンチスト教会」であれば、どうやって真のバプテスマを受けられますか?聖書の真の教会は、その所有者(神様)によってもう名付けられています。聖書の真の教会は神のものであり、それが「神の教会」と呼ばれている理由です。聖書には、真の教会は、所有者の名の後に呼ばなければならないという神によるものがあるので、それを別の名前で呼ぶのは間違っています。
繰り返しますが、真のバプテスマは「神の教会」にあります。ですから、「神の教会」以外の洗礼は何もありません。それは無駄です。無効です。それは神によって認められていません。
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