これまでに最も快い声々
聖書が神の従者たちに教える基本的な教義の中の一つは、神を称賛する賛美歌を歌うことです。神に賛美歌を歌う習慣は、神の初期の従者であった古代イスラエル人の時代にまで遡ることです。そして、聖書の説明によると、彼らは、歌の際に伴奏するために、サルタリー、ハープ、十弦楽器などの特定の楽器を使用しました。
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詩編 92:1
主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。
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詩編 92:3
十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。
同様にクリスチャンたちは、詩編、賛美歌、そして霊的な歌を神に歌うように諭されています。これらの歌は、兄弟を啓発し、擡げて、鼓舞させる手段でもあります。
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コロサイ 3:16
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
そして、私たちが神に向かって歌う度に、心の中で優雅にそれを行わなければなりません。人間は一般的に、音楽の本質的な愛好家です。実際に誰もが、そして、他のすべての人のために書かれ、歌われている膨大な数の曲がその証拠です。
例えば、愛国心、愛、祖国への忠誠心が表現されている、自分の国向けの歌があります。実際、すべての国には独自の国歌があります。国歌は、老若男女を問わず、重要な式典や手続きが始まる前に歌います。無条件の愛と犠牲のために最愛の両親に捧げられた歌もあります。一方、カトリック教徒には、マリヤを称賛するための曲がたくさんあります。自然と宇宙の美しさに感歎と驚嘆を表す歌があります。そして、人々がそれぞれの友人や愛する人のために歌う何百万数もの曲もあります。
私たちが彼ら全員のために感情と熱意をもって歌を歌えるのなら、私たちの創造主に賛美歌を歌い、私たちの信仰、感謝、賞賛、そして主の愛ある親切さへの感謝を表現することは、より相応しいことなのではないでしょうか?あまり心地よい歌声がなくても、音程が外れのある歌い方でも問題ありません。重要なのは、心の中で誠意と優雅さをもって神に向かって歌っているということです。
キリストと使徒たちも神に賛美歌を歌ったことは確かです。聖書は、使徒たちが素晴らしい歌声を持っていることを私たちに確認出来ませんが、私は主イエス・キリストが快くて魅力的な御声を持っていると本当に信じています-これまでに聞いた他のどの声よりも快くて魅力的です。
主イエス・キリストの御声は、快い響きであることに加えて、羊の群れによって認識され、従われる特定の優艶な魅力と権威を伴います。
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ヨハネ 10:3
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
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ヨハネ 10:4
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
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ヨハネ 10:5
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
羊は主イエス・キリストの御声を認識し、聞き、そしてそれに耳を傾けます—羊たちが主を自分たちの羊飼いとして認めているという現われです。
文字通りの羊は、自分たちの羊飼いの声に親しみと従順であることを証明し、見知らぬ人の声ではなく実際の羊飼いの声だけに従うという科学的実験の映像があります。
映像の3人が牧草地で放牧している羊たちを呼び寄せようとしました。男性は聴覚可能な距離にありましたが、呼び出しによって注意を払った羊はいませんでした。羊たちのどれもが男性の声を認識する兆候を示しておらず、それらのいずれからも僅かな身体的な反応すらありませんでした。しかし、本物の羊飼いが羊たちに点呼をかけたとき、羊たちはすぐに羊飼い主の呼びかけに応じました。羊たちは羊飼い主の声を知っていたので彼に従った。
ヨハネ10:3-5で言及されているキリストの「御声」は、実際に聞こえる声を指しているわけではありません。御声は主の教えと戒めを象徴しています。
文字通りの羊たちと彼らの文字通りの羊飼いの声への従順は、主イエス・キリストに従う者たちの主の声や主の教えへの従順に例えることができます。言い換えれば、真のキリストの信者や真のクリスチャンは、主の声、主の教えや戒めに耳を傾けるだけではなく、彼らはそれらのことに従います。そして、彼らはキリストに属する教え以外の如何なる教えにも従いません。
私は敬虔なカトリック教徒の家族から来ました。私の母はフィリピン国内にあるバクララン市でのカトリック教会の入り口から祭壇までずっと膝をついて歩いていました。ラウニオン州のナギリアン市出身の父と祖父母もカトリック信者でした。
私の母はカトリック教徒としての人生を通じて、儀式の間に司祭が数節を読むことだけ、読んだ聖句には何の説明も与えられず、物語を読み進めてるだけのことで慣れていました。しかし、母がキリストの御声を聞いたとき、つまり、カトリック教会の司祭から聞いたことのない教えを聞いた時、母はすぐにキリストの御声に応えました。彼女はカトリック教会を出て、神の教会でバプテスマを受け、そこでキリストの御声が仰せられたことを成就し続けました。それは、ある人間がキリストの羊の群れの中にいる場合、彼または彼女は確かに主の御声を認識して、躊躇うことなくその人が主に従うことで証明されるのです。
キリストの御声は優しい響きと魅力的なものの両方であると確信しています。これが私の母の関心がすぐに捉えられた理由です。彼女はそれに抵抗することができませんでした。
一方で、使徒たちの声々にも快い響きがあるかどうかはわかりません。しかし、私が確信しているのは、彼らが称賛の歌や、賛美の歌をも神に歌ったことです。
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マタイ 26:29
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
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マタイ 26:30
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。
キリストと使徒たちが賛美歌を歌った後、オリーブ山に行きました。これは主イエス・キリストがイスカリオテのユダに裏切られた夜でした。
私たちは個人的にキリストの御声を音声で聞こえませんが、主イエス・キリストの御声は、世界がこれまで聞ける声々の中で最も美しい御声であると確信しています。そして、御父の御声の壮大さと壮麗さだけがキリストの御声の美しさを超えられます。ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネは御父の御声を聞くことができました。また、ヨルダン川で主イエス・キリストにバプテスマを施したときも、バプテスマのヨハネはその御声を聞けました。
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マタイ 3:17
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
誰も異議を唱えることのできない真実の一つは、御父、御子、御霊の声々が、これまでに聞いたことがない最も快く、最も崇高で、最も愛情深く、そして、最も魅力的な声々であることです。そして、そのような特質は彼らの教えにはっきりと反映されています。アーメン。
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この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com
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