キリストの千年統治の間に何を期待することなのか

10月 25, 2020 0 Comments

「主イエス・キリストの再臨がすでに審判と地球の破壊の日を示すものだ」と語る説教者や宗教を信じてはいけません。それには真実はありません。そうです、主イエス・キリストは戻って来られますが、人類を裁き、地球をすぐに破壊することはありません。それらのことを実行するために、別に定められた時があるからです。

主イエス・キリストが戻って来られるとき、主はすべての死者ではなく、主にあって死んだ人々だけを復活させます。これは「第一の復活」と呼ばれます。そして、主が復活させた人々と、その時までにまだ生きている主の忠実な従者たちは、空中で主に会うために雲の中に引き上げられます。

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テサロニケ 一 4:16
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

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テサロニケ 一 4:17
次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

先の復活に含まれる人々は、第二の死がもはや彼らを支配していないので、祝福されていると見なされます。彼らは祭司になり、キリストと共に、千年の間、地上で君臨します。

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黙示録 20:5
そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。

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黙示録 20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

言い換えれば、起こってしまう死者の復活が2つあります。第一の復活は、キリストにあって死んだ人々限定のことであります。これは主イエス・キリストが戻られたときに起こります。一方、次の復活には、第一の復活に含まれていなかったすべての死者が含まれるようになり、千年紀の後に起こります。ですから、死者の第一の復活とその次となる復活の間には千年間の時間差があります。

すべての死者が蘇ったとき、それは主イエス・キリストが生者と死者の両方を裁かれる時です。聖書は、キリストを生者と死者の両方をさばこうとしている方と呼んでいました。

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ペトロ 一 4:5
彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。

主イエス・キリストが生者と死者の両方を裁かれることを証明する別の聖句は、テモテ 二 4:1であり、次のように述べています。

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テモテ 二 4:1
神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

主イエス・キリストが現れ、主の御国の栄光が明らかにされる時が来ます。しかし、次の復活の時に立ち上がる生者と死者の両方について主が裁きを下すのは、千年紀の後になります。

実際、これらの啓示が与えられたヨハネは、審判の日を垣間見ました。彼は、悪魔が火と硫黄の湖にどのように投げ込まれたかさえ見ました。

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黙示録 20:10
そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

その後、ヨハネはまた、大きな白い御座を見ました。そして、神の御座の前に、復活をし、裁きに直面したすべての死者が立っていました。

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黙示録 20:11
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

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黙示録 20:11
また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

ですから、主イエス・キリストの来臨は、裁きの日でも地球の破壊でもないことは明らかです。これらのことは、主が地上で千年間に渡って統治した後に起こるからです。主イエス・キリストの来臨は、地上での主の千年間の統治の始まりを示すだけであることを理解する必要があります。

主イエス・キリストが地上にいるすべての人々を治めますので、私たちはどこにでも広がるような正義、義、そして、神聖さを期待することができます。また、キリストが統治して下さることで、ますます多くの人々が回心すること、つまり、ますます多くの人々が救済の機会を与えられることを期待することができます。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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癒し:偽か、それとも真か

10月 18, 2020 0 Comments

 聖書は教会への多様な霊的な賜物について言及しており、そのうちの一つは癒しの賜物です。 


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コリント 一 12:4
さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。

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コリント 一 12:9
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、

実際、1世紀のクリスチャン教会がこの賜物を受け取るようになりました。そのため、当時、肉体的な弱さを持つ人々を癒すための器となった使徒や教会の会員たちがいました。そして、現在まで、神の癒しの賜物は、神の民によって享受され続けています。

時には、癒しは人間の介入のお陰はなく、熱心な祈りのために起こります。一つは、熱心に祈る人々に癒しを神は提供して下さいます。私は個人的に、既に末期にある病気と診断されていた教会の中のキョウダイたちと、伝染病を患っているキョウダイたちを知っています。しかし、全能の神への熱心な祈りを通して、これらの人々は医者が彼らに告げた寿命を越えて生きることができました。経済的制約のために手術を拒否し、退院することを選んだ人もいましたが、誠実な祈りと嘆願によって、神は彼らの人生に更に数年を加えて下さいました。

Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)では、疾患や病気に苦しむ時はいつでも、跪いて祈り、神の憐れみと介入を求めることが最初の手段です。儀式等は行いません。呪文は一切唱えません。私たちはただ熱心に祈っています。神は最高の医療専門家が出来ること以上のことをすることが出来て、最高の医師と言われている人間が出来ないことを神が出来るというのが私たちの信仰です。

今日の多くの説教者は、彼らには癒しの賜物があると自慢しています。それは、単に病人に手を置くだけで、病気の人はきっと元気になると。もちろん、それは馬鹿げた主張です。彼らが癒しの能力を持っていると主張するのはとても簡単ですが、それを証明することは彼らがしなかったことです。

実は、癒しの儀式をしていると思われる恥知らずな説教者の動画を観たことがあります。しかし、彼は病気の女性に手を置く代わりに、彼女に足を置いた。 「善に正直」の癒しを提供することは、彼の最大の関心事ではないことが明らかになりました。彼は、癒されることを切望していた病気の女性を利用することにもっと興味を持っていました。動画に示されているように、彼は説教者としての彼の立場と、彼の自称に過ぎない癒し賜物を淫奔で猥褻な行為をする際に利用していた。


動画の女性は実際に卵巣の病気に苦しんでいました。しかし、牧師は何をしましたか?彼は足を使って女性の性器に触れていました。彼は事実上、彼女を性的に暴行していた。この愚かな牧師が採用したのと同様の癒しの方法について聖書は一切語っていません。それは欲望と官能性の全体的な表示であり、間違いなく、この男は神に属している者ではなく、悪魔に属する者です。

私たち、Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)では、そのような愚かさを実行することも、手を置くだけですべての病気の人々を癒すことができると主張することもありません。癒して下さるのは神であると心から信じ、出エジプト記15:26「・・・わたしは主、あなたをいやす者である。」で神が言われたことを信じて、神の癒しを祈ります。私たちは、常に神の宣言と神の豊かな憐れみを頼りにしています。

確かに、教会に与えられた癒しの賜物があります。たとえば、医師、看護師、医療マッサージ療法士として働く兄弟姉妹のように、この賜物を授けられた教会の会員が本当にいます。マッサージセラピストとして、彼らは腫れを癒し、スポーツ傷害をリハビリし、筋肉の緊張と強張りを和らげ、痛みを感じる人に手を置くのではなく、体の患部に様々な程度の圧力をかけることで、安らぎと快適さを提供します。または、治療が必要な領域を手でこすったり撫でたりします。ですから、彼ら自身の小さな方法で、彼らも癒しを提供することができます。

しかし、人が祈りのために癒されたのか、それとも医療専門家の介入のために癒されたのかについて、私たちの信念は、神と主イエス・キリストが本当に癒して下さる方々でおられるということです。癒しの賜物を持っている人々は、人々を癒すための器として、御父と主キリストによってただ使われています。実際には、奇蹟を働くのは神と主イエス・キリストの癒しの御力です。肝心なのは、神と主イエス・キリストが私たちの癒す者でおられるということです。

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結婚する、または結婚しない:神の掟に導かれよう

10月 10, 2020 0 Comments


神は、人間が常に良いものを選び、神の教えを守り、人間が平和で安全で至福の人生を送ることができるように、神が概説したすべきことと、してはいけないことを守るように望んでおられます。しかし、神は人間に自分のやりたいことを強制することも、人間の選択の自由を省くこともありません。それでも、神は人間が神の御心に従うことを選択した場合、人間が得るであろう利点と利益を明らかにしておられます。

そして、子どもたちのために最善を尽くすことだけを望んでいる父親のように、神は、特に人生の選択や決定を行なう際の先導として、使用できる掟や推奨事項を人間に与えることを忘れておりません。例えば、配偶者と結婚する時です。

結婚は、すべての男性と女性に与えられる選択肢です。自分の家族を作りたい人はいつでも結婚することを選ぶことができますが、静かで、動揺せず、敬虔な生活を追求したい人は、いつでも未婚のままでいることを選ぶこともできます。しかし、結婚することを選択した場合は、後で後悔するような間違いを犯さないように、まず、この問題に関して聖書に書かれている神の掟を調べることが重要です。

女性に関する限り、聖書は、彼女が心配や責任の少ない人生を望んでいるなら、そして、彼女が神への奉仕に気を散らさないような人生を望んでいるなら、結婚しないほうがよいと言っています。何故なのか?結婚することは、24時間年中無休の職業だからです。それは、彼女の多くの時間を必要とするでしょう。そして、結婚すると、神に仕えたいと思うほどの多くの時間を割くことができなくなります。彼女は、神への義務と夫と子どもたちへの義務の間で引き裂かれます。

敬虔さと神聖さについて常に考える未婚の女性とは異なり、既婚女性はこの世のことに心を配ります。ですから、彼女がそのようなことに気を取られないようにするために、聖書は彼女が独身の女や処女であり続けることを勧めています。

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コリント 一 7:32
あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。独身の男は、どうしたら主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。

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コリント 一 7:33
しかし、結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、

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コリント 一 7:34
心が分かれるのです。独身の女や処女は、身もたましいも聖くなるため、主のことに心を配りますが、結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。

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コリント 一 7:35
ですが、私がこう言っているのは、あなたがた自身の益のためであって、あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろあなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。

典型的な家庭では、夫が稼ぎ手の役割を担っていますが、負担の重い部分を占めるのは妻です。彼女は、赤ちゃんを妊娠し、9か月間お腹に入れたまま抱える人です。 9か月後、彼女は出産します。そして出産することで、彼女の人生は大きな危険に晒されます。そして、出産後、彼女は一日中子どもを授乳し、見守っています。実際には、母親が果たさなければならない仕事は決して終わりません。これは、まだ彼女の夫への妻として、彼らの家の番人としての彼女の義務もまた別の話です。。

彼女は、毎日重い仕事をしているので、神に仕えるために費やす時間を割り当てるのは間違いなく困難です。しかし、彼女が神の掟に従うことを選択した場合、つまり、彼女が独身の女や処女であり続けることを選択した場合、彼女は非常に厳しい生活から免れ、自由に神に仕えることができます。

この特定の神の掟も男性に勧められています。また、子どもたちの授業料の支払い、赤ちゃんのための牛乳やおむつ購入、家賃、借金、その他の家計の支払いなど、家族の世帯主であるという問題から身を守りたい場合。そして、彼が心から主に仕えたいのなら、使徒パウロのように独身でいることが最善です。

時には、使徒パウロのように、特別な機能を果たすために、神から任命された特別な人々がいます。パウロの場合、彼は神の御心を受け入れ、彼の個人的な選択が彼の人生に勝ることを許しませんでした。使徒たちが結婚することは禁じられていませんでしたが、使徒パウロは自分の機能と責任をより忠実に、そして、支障なく果たしたいと思ったので、未婚のままでいることを選びました。彼はまた、主に仕えることに一生を捧げたかった故だ、と思っていました。妻と子どもたちがいたら、そのことはできなかったのでしょう。

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ガラテヤ 1:13
以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。

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ガラテヤ 1:14
また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。

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ガラテヤ 1:15
けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、

実際、パウロがまだ母親の胎内にいる間でさえ、神は既に彼を使徒として定めておられました。そして、使徒職に定められた時が訪れて、彼は喜んで神の御心に服従しました。

使徒パウロのように、エレミヤがまだ母親の胎内にいたときから、別の特別な機能を行なうことを神はまた意図しておられました。神は、エレミヤを諸国民の預言者となるようにあらかじめ定めておられました。

しかし、これらのいくつかの例外的なケースを除いて、人々は彼らが望む人生の種類を自由に選ぶことができます。彼らが望むなら、彼らは自由に結婚することができます。それが彼らの選択であるならば、彼らはまた、未婚のままでいることも自由です。そして、彼らが結婚することを決心した場合、彼らが最初に神の掟と勧告を考慮することが最善です。

まず第一に、男性または女性が、彼または彼女の生涯の恋人になる適切な人を選ぶようにすることが重要です。彼らは、彼らが適切な人と恋に落ちることを確認する必要があります。何故なのか?悪魔はまた人々に恋に落ちるように促しているが、奴は、彼らに間違った人(例えば、既婚者)を愛するように促しているからです。キューピッドがあなたの心にまっすぐに向かう矢であなた射ると、あなたは愛に目がくらみ、既婚の男性や女性とさえ恋に落ちるのだと、他の人の言うことを信じないでください。それは戯言です。そもそも、キューピッドは本物ではありません。それは神話にのみで存在します。既婚者と恋に落ちるのは、キューピッドの仕事ではなく、悪魔の仕事です。そして、あなたが悪魔の誘惑に屈するならば、あなたは横恋慕と不道徳になるでしょう。

神はまた、あなたが気性の悪い人と結婚することを望まれません。実際、神はあなたが気性の悪い人、いつも怒っている人や、激怒している人と付き合ったり、友達になったりすることさえ望んでいません。彼らは、あなたに悪影響を与える可能性があるので、神は、あなたにそのような人々から離れてほしいと思っておられています。

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箴言 22:24
おこりっぽい者と交わるな。激しやすい者といっしょに行くな。

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箴言 22:25
あなたがそのならわしにならって、自分自身がわなにかかるといけないから。

実際、この素質は男性だけでなく、熱心で常に他の人と争ったり議論したりしている女性にもあります。

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箴言 21:19
争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。

だから、あなたの彼女がいつもあなたと喧嘩する、論争するのを見たら、引き返してください。そうでなければ、彼女があなたの妻になった場合、あなたは人生の平和を見つけることができません。そして、彼女が非常に迷惑になり、対処するのが難しくなったときに、あなたは簡単に彼女を捨てたり、追い払ったりすることは出来なくなるのです。

夫と妻が別れるのは神の御心に反します。結婚は長続きするべきです。—それは時の試練に耐えこと、そして、それはすべての困難に耐えるべきことです。これらが起こるので、夫婦関係は、真の愛と神の教えに基づいていなければならないのです。そして、結婚の契約当事者たちは、夫婦関係は生涯であり、死だけが彼らを引き離すことができることを認識する必要があります。

他の教会で結婚を無効にしたり、無効と宣言したりできるとしても、真の神の教会では、結婚は生涯にわたる約束であり、結婚契約はその効力を失うことはありません。そのうちのどちら一人が死んだときにのみ期限切れになります。

そして、Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)にいる私たちは、夫婦が別れることを許可していないので、結婚したい男性と女性は、本当にお互いを愛していることを最初に観察します。-二人は、異なる家族の背景を持っており、異なったに育てられたこと、自分たちの道に来るかもしれない挑戦や問題に直面する準備ができていること。そして、常にお互いに支え合い、生涯を通じて、お互いに忠実であり続けるのか。そしたら、結婚生活の中で問題や葛藤が生じた場合は、結婚生活の維持にも役立ちます。夫と妻が最後まで一緒にいるのは神の御心であるため、私たちは神の御言葉を使って、物事を修正し、問題を解決するのを彼らを助けます。

私たちが行なうすべてのこと、そして、私たちが行なうすべての選択と決定において、私たちが導かれて、神の御心に従うならば、それは、常に私たちの利益になると断言できます。私たちの自由意志、または、選択の自由を使用するのに賢明な方法は、結婚であれ、人生の他の側面であれ、神の掟に従うことを選ぶことだと言えます。神は、私たちにとって何が最善なのかを知っておられることを常に覚えておいてください。そして、神は私たちにとって最善を望んでおられます。

神に栄光あれ!

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自由意志は、神の人間への尽きることの無い愛を示すもの

10月 06, 2020 0 Comments

私たちの命は神から来ています。そして、神がそれを望んでおられるから私たちは存在しています。命をお与えになられている方でおられる神には、命を奪う御力もあります。問題は、すべての死は神によって望まれるのかどうかということです。例えば、胎児がまだ母体内の中にいる間に死ぬのは神の御心ですか?

その質問に対して、明確な「はい」または「いいえ」の答えを出すことはできません。まず、赤ちゃんの死の原因を特定する必要があります。何故、そして、どのように赤ちゃんは死んだのか?赤ちゃんが自然な方法で死亡した場合、つまり、人間の介入がなかった場合、その死は神によって望まれたため、母親は子どもの死の責任を問われないと言えます。しかし、母親が故意に子どもを中絶した場合、間違いなく、子どもを中絶することは神の御目には忌まわしい行為であるため、その場合は、赤ちゃんの死は神によって望まれていません。そして、それを犯した者は誰であろうと、罪のない人の死に対して責任を問われます。

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箴言 6:16
主の憎むものが六つある。いや、主ご自身の忌みきらうものが七つある。

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箴言 6:17
高ぶる目、偽りの舌、罪のない者の血を流す手、

罪のない血を流すことは、神が憎む行為の一つです。そして、罪のない血を流す一つの方法は中絶です。中絶は神の御心に反します。

しかし、罪のない血を流すことは、女性の子宮の中で子どもを中絶することに限定されません。幼い子どもたちの命を奪うことも、どんな理由であろうと、罪のない血を流すこととして見なされます。

ですから、イスラエル人が息子と娘たちををカナンの偶像へのいけにえのささげ物にした時、神は酷く傷つきました。

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詩編 106:38
罪のない血を流した。カナンの偶像のいけにえにした彼らの息子、娘の血。こうしてその国土は血で汚された。

想像してみてください。彼らは。彼ら自身の子どたちを殺害し、燃やして、彼らを偽りの神々への捧げ物にしたのです!

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エレミヤ書 7:31
また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。

息子や娘に火の中を通らせることは、神の戒めに反します。それは、神にとって忌まわしいことです。

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申命記 18:10
あなたのうちに自分の息子、娘に火の中を通らせる者があってはならない。占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、

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申命記 18:11
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。

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申命記 18:12

これらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。

科学的に言えば、妊娠3か月または4か月の間に、母体内にいる胎児は、既に人間である認識を持っています。そして、妊娠の2週目から3週目までの早い段階で、子どもはすでに心臓血管系を持っています。実際、最初に形成される器官は心臓です。神にとって、心は非常に重要です。人間が生まれる前に、神は既に人間の中にある心を知っておられています。

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エレミヤ書 1:5
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」

預言者エレミヤの場合、彼が母親の胎内で形成される前から、神は既に彼を知っておられていました。—神は、彼が産まれる前に彼を聖別しました。そして、まだ母親の胎内にいる間、神は既にエレミヤを諸国民の預言者として定められていました。これらすべてを考えると、エレミヤの母親がほんの数週間の時に母体内にいる子どもを中絶することを決心したならば、エレミヤの母親がどれほど重大な罪を犯したかを想像することができます。彼女は、息子に対する神の命令の履行を妨げる可能性がありましたからね。

赤ちゃんを中絶する女性と中絶を行なう医師は、どちらも罪のない血を流した罪を犯しています。彼らが母親の命を守るための場合は、その限りではありません。母親の命が危険にさらされたために赤ちゃんが中絶された場合はまた別の話です。このような状況では、中絶は許容されるようになります。

しかし、非嫡出子から妊娠したために嘲笑されることを恐れたり、女性が責任を避けたくて、その妊娠は彼女の姿を台無しにするから、または、赤ちゃんは彼女の野心を満たす上で障害になるからという理由で中絶が行なわれたのなら、神にとって大きな罪です。そのような場合、中絶をした女性は罪のない血を流した責任を問われるだけでなく、中絶を行なった医師も責任に問われます。これを覚えておいてください—赤ちゃんを中絶することは神の御心の一部ではありません。

現在、中絶を促進する空論があります。それは、その支持者によると、それは世界の人口を制限する方法だからです。予想通り、この愚かさの擁護者は恥知らずな無神論者です。神を信じない人々は、人々の寿命を縮め、地球の人口を減らすことを目的としたすべての運動と概念の背後にあります。これらの人々は大量破壊兵器の発明の背後にいる人々でいて、おそらく、今日、世界中の何百万もの人々に感染し続けているウイルスにもいます。このウイルスは非常に奇妙で非常に強いので、私はそれが自然から来たのではなく、人工であると信じる傾向があります。

代替医療の研究で学んだことから、ウイルスは自己制限的です。これは、ウィルスが短時間の後に自然に死ぬことを意味します。それと異なって、致命的で耐久性のあるこの新型コロナウイルスとは、1か月半以上生き続けます。驚いたことに、宿主の体内部ではなく外部で、最大49日間繁栄します。これは、おそらく彼らが遺伝子組み換え生物(GMO)と呼んでいるものの1つです。これは、植物、動物、ウイルスを含む微生物などの生物の遺伝物質が人間によって改変、または、改ざんされた工程の結果である可能性があります。

今日、GMOは、作物や動物の自然な構成を妨害している金持ち、特にビジネス界の大物によって促進されているようです。これは、彼らがより多くの富を蓄積し、最終的には世界の覇権を達成するために行なっています。

これらの金持ちは、自分たちの心の中に世界政府を持ち、それを主導し、世界経済を独占し、すべての人々に指示をする機会を得るという考えをいじっています。この種の世界政府の考えは、実際には反キリストの概念です。

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黙示録 13:16
また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

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黙示録 13:17
また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

世界の支配を熱望する本当に裕福で強力な人々がいることは避けられません。間違いなく、この欲求を持っている人々は悪魔の手先とその仲間です。彼らは神に属していません。だからこそ、彼らは神の創造物の遺伝子構成を変えることを恐れないのです。

私が強調したいのは、人々が死ぬ度に、それらは、神の完全な御心ではないということです。すべての死が神によって直接、望まれるわけではありません。私たちが神の御心について話すとき、私たちは神の寛容な御心や、指示的な御心のようなものがあることを理解しなければなりません。神の指示的な御心は、起こることが神が本当に起こりたいことと望まれたときに起こります。一方、寛容な御心は、神が特定の事柄の発生を許し、または許可したときに発生します。それは人間が望んでいることだからです。それは人間が自由意志を行使したために起こります。

したがって、死が自然に起こった場合、例えば、病気や老齢のために死んだ場合、その人が神と主イエス・キリストの教えを熱心に、忠実に果たしていたときに死んだとしたら、その人の死は神によって望まれたと言えます。しかし、人が無謀に個人的な満足を求めて死んだ場合、そして、神の戒めをよく知っているにもかかわらず、故意に神の戒めを注意を払う必要のないものとして見なすことを選んだ場合、その人の死は神によって許可されただけであり、結果として起こっただけと言えます。その人は、人生で賢明な選択をしなかったことが死因となります。

私の小学校の先生から今まで覚えていることの一つは、彼女の格言の引用でした。「あなたは、あなたの運命の主人公です。あなたは、あなたの魂の指揮官です。」それは、私たち自身が選択と決定を行なうので、私たちが生きたい人生を形作るのに分け前を持っていることを意味します。そして、私たちが誤って行なったことや、神の忠告を完全に無視したことに対して、私たちが責任に問われることになるのは、私たちが行なう選択と決定次第なのです。

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申命記 30:19
私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、

人生において、人間には2つの選択肢が与えられます。人は何が良いか、何が悪いかを選択します。善と悪は世界に存在する現実であり、神が望んでおられているのは、人間が善を選択することです。

しかし、悲しいことに、早い時期から、善を神様がすべて教えて下さったにもかかわらず、人間が悪を選ぶ傾向を神が見てきました。それは、神の教えに反することをするように人に促し続ける神の大敵こと、サタンのせいです。

しかし、創造主の人間への大きな愛と人間の救済への深い慈しみ故に、神は人間とその子孫が生きることを選び、生きていけるために、神様はご自身の処方を人間にお与えになられています。それにもかかわらず、人間には自由意志を与えられているため、決定は人間が下すものです。私たちは、人間が自由意志を行使する際に、慎重さを行使することを期待することしかできません。そして、その人が死ではなく、生を選ぶように願う期待するしかないです!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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贖うのも、報うのも神である

10月 06, 2020 0 Comments

聖書で紹介されている本当の神は、まだ訪れていないものさえも視れる神です。その御力の故に、神は人間に訪れる悪を善後策し、または、阻止することができる手段を準備することができます。

私の主張を証明するために例をあげましょう。機械やエンジンを発明した技術者は、すべての部品を設計して組み立てたので、発明した品の可能性、能力、限界について十分な知識を持っています。その製作者として、技術者はその発明品を使用し、維持するのに適切な方法も知っているので、技術者は、機械が提供できる最高品質なものを入手するために、機械の将来の使用者を教育することを目的とした指示のマニュアルを準備します。つまり、そこに列挙されている推奨事項と禁止事項に従うことです。

技術者が完成品を思いつく前から、先見の明のある人間な技術者は、機械が古くなるにつれて、発生する可能性のある問題を理解していたことは明らかです。使用者が無謀になり、マニュアルどおりに従わなくなった場合。また、機械が故障または誤動作した場合のために、取扱説明書には、簡単なトラブルシューティングのヒントと、問題を解決できる信頼・信用できるサービスセンターのリストも記載されています。

神は技術者でもおられますが、技術者の創造主でおられるため、普通の技術者ではありません。人間の創造主である神の知恵、創意工夫、職人技、そして先見性は比類のないものであり、並び無きものです。そして、神の人間への愛、神の傑作は疑いの余地がありません。その証拠の一つは、神が人間を創造される前に、神は最初に、人間が必要とする全てのものが、既に利用可能、接近可能で、助けとなる住居を持てることを確認しました。そして、それが地球なのです。

神は、地球が人間の住居であることを意図しました。使徒17:26に書かれているように、

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使徒 17:26
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

神は、最も目立つ細部から微視的な細部まで、ご自身の創造物を裏返しに知っています。神は、人間のあらゆる側面を知っておられています—その者の長所と短所、傾向と限界、そして、特定の状況や状態でその者が取るかもしれない行動の可能な方向さえもです。

しかし、その機能が人間の介入に大きく依存する人工エンジンとは異なり、神が創造した人間は、ある程度の自由を享受しています。神は人間に学習能力を装備する以外に、人間に自由意志を与えて下さったので、人間は自分自身の意志から物事を行なうことができます。

しかし、人間の前に、神によって置かれた特定の するべきこと と してはいけないこと もあるので、人間の自由は本当に絶対的なものではありません。神はまた、人間が従う必要のある一連の法律と、人間が注意を払う必要のある警告と注意の一覧を人間に与えました。そして、これらはすべて、神の「指示の手引き」である「聖書」に書かれています。人間の自由と同時に、人間が従わない場合、それに対応する結果が生じるという認識があります。これは、人間が従うことを選択した場合の報酬があるのと同じ方法です。しかし、同じように、人間には自由意志があるので、従うか従わないかの決定は人間の特権です。

神は、人間が自由意志を悪用して乱用する可能性を予見していました。神の特質の一つは、物事が起こる前に視る御力を持っておられているということを覚えておかなければなりません。人類の物語は、まだ終わっていませんが、実は、神は最初から最後まで知っておられています。

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イザヤ書 46:9
遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。

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イザヤ書 46:10
わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。

※日本語版 イザヤ書 46:10の「望む事」は、本来「喜び (英語版では pleasure)」が正しい翻訳です。

KING JAMES VERSION
ISAIAH 46:10
Declaring the end from the beginning, and from ancient times the things that are not yet done, saying, My counsel shall stand, and I will do all my pleasure:

これらの節で、神の御力、そして、ご自身の能力を比類のないものとして神はご自身を紹介なされました。神が仰せられたことのように、神のような人間は誰もいません。神の御子でさえも、権力において神(御父)のようになることはできません。一つには、神だけが最初から終わりを宣言することができます。

神は、将来に何が起こるかを知っておられています。神は、人間が自由意志を慎重に使用しない可能性、神の注意と警告を無視し、人間の するべきこと と してはいけないこと を無視し、その結果、罪に陥る可能性を予見していました。しかし、神の被造物への配慮と関心が指示書の作成とサービスセンターの推薦のみに限定されている通常の技術者とは異なり、神の人間への愛と思いやりは計り知れません。実際、人間が創造される前でさえ、神が準備されたのは、人間の居住地であるだけでなく、人間が罪深さに陥った時に、人間を贖うのに十分すぎるほどの犠牲もでした。そして、それは主イエス・キリストに他なりません。

この聖書の真理は、「それは、主イエス・キリストが人間を罪から贖うために、最初から、肉体でご自身を示すように、事前に定められていたということですか?」と、必然的にこの質問をするように導きます。

この質問への答えは黙示録5:9にあります。

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黙示録 5:9
彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、

KING JAMES VERSION
REVELATION 5:9
And they sung a new song, saying, Thou art worthy to take the book, and to open the seals thereof: for thou wast slain, and hast redeemed us to God by thy blood out of every kindred, and tongue, and people, and nation;

英語版の黙示録 5:9の聖句の中にある 「Thou(あなたは・)」と「Thy(あなたの)」の代名詞は、主イエス・キリストを指しています。主は殺されました。そして、主の血によって、主はすべてのあらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖いました。

主はいつ殺されましたか?

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黙示録 13:8
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

主イエス・キリストを象徴する小羊、「世の来からほふられた小羊」「世の来から」という御言葉は、神がまだ地球を創造中だった頃、つまり、その頃は、人間はまだ存在していないという意味です。しかし、その時早くも、神は、人間が後に罪に陥る可能性を視たので、贖い主の必要性を既に予見しておられました。その贖い主は小羊であり、世の初めからほふられる運命にあった主イエス・キリストを表しています。

神は、最初から終わりを宣言する能力を持っておられているだけでなく、イザヤ書46:10で、 『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事(本来は 喜び(pleasure)) をすべて成し遂げる。』と仰せられました。これは、神の非常に重要な宣言です。その「喜び(pleasure)」が私たちの存在の主題なのです。それが、私たちが存在する理由です—私たちの創造主に喜びを与えるためです。

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黙示録 4:11
「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」

存在するすべてのものは、私たちの創造主の喜びのために創造されました。そして、私たちは、神の喜びに悪がないことを知っています。

内閣官房長官は、業績に不満を持っている市民から辞任を求められているが、辞任したくない理由を問うと、彼らは、大統領に喜んで奉仕しているとよく言います。つまり、大統領だけが彼らをそこの地位に置いたので、大統領だけが彼らをいつでも解任することができます。しかし、間違っている可能性のある大統領の喜びとは異なり、全能の神の喜びは決して間違っていることはありません。私たちが創造主の喜びのために存在するならば、私たちは常に安全の中にいます。

神の創造物として、私たちにできる最善のことは、私たちの存在と、神が準備された、世の初めからほふられた小羊に対する私たちの感謝を神に示すことです。何故なら、主の血によって、私たちは罪から救われたからです。繰り返しますが、小羊は神の御子、主イエス・キリストを象徴しています。アーメン。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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罵倒する者から信者へ:十字架での泥棒の啓発

9月 22, 2020 0 Comments

聖書の普通の読者が、マタイ27:44、マルコ15:32、ルカ23:39~40に出くわすときはいつでも、主イエス・キリストと一緒に十字架に架けられていた泥棒が実際に、彼らが架けられていた間にどのように主を扱ったかについて読者たちは混乱することがあります。彼らの混乱は、マタイとマルコの記述とルカの記述との間に矛盾があるように思われたことに起因しています。

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マタイ 27:44
イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。

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マルコ 15:32
キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。

上記の聖句では、マタイとマルコの両方が、二人の泥棒が十字架に架けられていた間に、悪意をもってキリストをからかっていたと述べました。一方、ルカは、泥棒の一人が主イエス・キリストを嘲ていたため、同じく片方の泥棒を非難したと述べました。

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ルカ 23:39
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

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ルカ 23:40
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

実際、混乱することは何もありません。さらに、それぞれの説明には矛盾は全くありません。彼らの記録はすべて正確で真実です。

一部の読者は全体的な事態に含まれる時間要素を考慮できないのが原因で、明らかに混乱が生じたのです。読者たちは二人の泥棒と主イエス・キリストが数分だけではなく、約6〜8時間も十字架に架かっていたという事実を見落としました。そして、その期間を考えると、多くのことが起こったことで泥棒一人の心が開かれ、主イエス・キリストに対する態度を変えたのです。

泥棒二人が主イエス・キリストを侮辱し、主に侮辱的な言葉を投げかけたのは事実ですが、それは彼らが架けられてから早い段階辺りの時間中に起こりました。

時間の経過とともに、起こった多くのことを目撃した後、泥棒のうちの一人は心変わりをしました。彼はキリストへの思いやりを抱き、最終的にキリストがそのような状況にあるに値しないことを悟ったのです。重罪のために死刑に値する正当な自分たち二人とは異なっていることを。

主イエス・キリストに対する泥棒の印象を覆すことができた例の一つは、息子のキリストが母親であるマリヤにどれほど気遣って、愛していたかを見たときでした。泥棒は、キリストがどのように自身の母親であるマリヤを、母親の世話を主の愛する使徒であるヨハネに託したかを聞きました。キリストがそのような非常に困難な状況にあったとしても、主はまだ自身の母親の福祉について考えていました、そして、自身が居なくなった時に、主は誰かが母親の面倒を見るようにしました。

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ヨハネ 19:26
イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。

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ヨハネ 19:27
それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

主イエス・キリストは人の心を見ることができます。そして、主は、ヨハネどれほど親切であったかを見ました。そのため、キリストは母親であるマリヤを彼に託しました。その日、ヨハネはマリヤを自分の家に連れてきて、マリヤはヨハネの家族の一員のように扱われました。

泥棒はまた、キリストが周りの人々のすべての侮辱と嘲りに耐えた姿を見ました。それとは別に、主が渇いた時に、兵士によって主に与えられた不親切な扱いという、水ではなく酢を主イエス・キリストに与えたにも拘わらず、主イエス・キリストがどのように柔和であったかを見ました。

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ヨハネ 19:28
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

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ヨハネ 19:29
そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。

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ヨハネ 19:30
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

泥棒はまた、人々が自分で何をすべきかを知らなかったため、間違いをしたことを赦すようにと、御父にキリストが祈るのを聞いたのです。(ルカ23:34)—愛、憐れみ、そして、寛大さに溢れた者だけが発することができる祈りを。

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ルカ 23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

泥棒の注意を引いたもう一つの件は、最後の数時間に太陽が暗くなったときでした。
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マルコ 15:33
さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

闇が6時間、つまり12時の正午から9時間目、または午後の3時まで、土地全体を覆いました。

これらのことがほんの数分で起こらなかったことに留意してください。それらは6〜8時間の間隔で発生しました。これは、主イエス・キリストに対する一人の泥棒の態度の変化が一瞬で起こらなかったことを意味します。変化は、彼が見聞きしたものによって促されたのです。これらのことを目撃した後、以前に主イエス・キリストを非難し、嘲笑した泥棒は、改心を経験しました。嘲ていた者から、「キリストは真に神の御子でおられているのだ」と、信者になりました。

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ルカ 23:34
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。

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ルカ 23:35
民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

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ルカ 23:36
兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、

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ルカ 23:37
「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。

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ルカ 23:38
「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

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ルカ 23:39
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。

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ルカ 23:40
ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。

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ルカ 23:41
われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」

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ルカ 23:42
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

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ルカ 23:43
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

必然的に、信仰は既に彼の心に湧き出ていたので、泥棒はその日、初めに彼が言ったことに対して反省と悔い改めの感覚を発達させました。それが、彼の仲間の泥棒がまだ皮肉と軽蔑をもってキリストと話していた時、彼を叱責したのです。主イエス・キリストに懇願しました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになる時期、私を思い出してください」と。

彼が死ぬ前に、彼がキリストを認めることができたので、私たちはその泥棒が非常に幸運だったと言えます。特に、主イエス・キリストが彼に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と仰せられました。

ですから、非常に明確に、福音書記者たちによって与えられた記述には矛盾するという考えはありません。読者は、発生した一連の出来事が6時間または8時間もあったことを理解する必要があります。そして、その6時間または8時間を考えると、多くの不思議なことが起こった可能性があります。初めは二人とも主イエス・キリストを責めたが、後から一人が目撃したことに感動したことは否定できないことです。彼は悟りを開いたこと。そして、この悟りは彼を、神と主イエス・キリストを信じるように導きました。

神への信仰とキリストへの信仰を育み、キリストが御国に行かれたときに、彼(泥棒一人)を覚えて下さるようにと彼が主イエス・キリストに懇願したことは、泥棒の彼の生涯で彼が経験した最高のことでした。これらのおかげで、彼は天国の相続人となりました。他の泥棒が、彼が経験した啓発と悟りを経験しなかったのは残念なことです。

最後に、聖霊の触発を受けた聖書には矛盾がないことを強調しておきます。互いに矛盾しているように見える節がある場合、読者は、背景とその状況の周囲の状況を検討する必要があります。そして、混乱や誤解を避けるために、聖書を読むときは、最初に聖霊の導きを呼び出すのが最善です。

神の祝福がありますように!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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命の目的と意義

9月 14, 2020 0 Comments

すべての生き物は、明確な目的のために存在し、それぞれのの命に意味を持つようになるのは、そのような目的の達成に在ります。

あなたがあなたの周りの様々な生き物の熱心な観察者である場合、あなたはそれらの存在のまさにそれぞれの目的を知っていて、それが何であれそれらがそれぞれの目的を実行する準備ができていることを理解するようになるでしょう。

ミツバチの場合を考えてみましょう。雄の蜂、また、雄蜂は自分の目的または、義務は女王蜂と交配し、女王蜂を妊娠させることであることを知っています。そして、雄蜂は自分の義務が何であるかを理解しているので、女王蜂と交尾した後、女王蜂は死ぬ運命にあります。そうすることで雄蜂は命を失うだろうという知識があるにもかかわらず、雄蜂はそれを実行します。したがって、人々はそれを「自殺的交尾」と呼んでいます。

下の図には、「蜜蜂による自殺的交尾:雄蜂の悲しい生態」と題された記事の抜粋です。

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蜜蜂による自殺的交尾:雄蜂の壮絶な生態:

「雄蜂と呼ばれる雄のミツバチは、女王蜂と交尾するという一つの理由だけのために存在します。蜂群にこの奉仕を提供すると、雄蜂は完全に使い捨てになります...」

しかし、雄蜂は自分の使命を真剣に受け止め、大義のために命を吹き込みます。蜜蜂の交尾は、昆虫の世界での性的自殺の最も劇的な例の一つです。女王蜂が仲間を探して飛び立つとき、蜜蜂の交尾は空中で行なわれます。雄蜂たちは女王蜂と交尾する機会を求めて競争し合い、女王蜂が飛び交う時に雄蜂たちは女王蜂の周りに群がります。

最終的に、勇敢な雄蜂が自分の動きをします。雄蜂は女王蜂をつかむと、腹部の筋肉の収縮と止血圧を使って陰茎を反転させ、女王蜂の生殖管にしっかりと挿入します。雄蜂はすぐにその陰茎の先端が破れるほどの爆発力で射精し、女王蜂の中に置き去りにされます。雄蜂は地面に落ち、すぐに死んでしまいます…」

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このことから、たとえ自分の命が犠牲になったとしても、雄蜂が自分の使命を非常に真剣に受け止めていることがわかります。



雄蜂の存在意義を満たし、蜜蜂の繁殖や誕生の道具となるため、雄蜂の人生は有意義なものになったと言えます。雄の蜜蜂、または雄蜂が当然の義務を特に注意を払う必要のないと思っていた場合、その種類の蜜蜂はおそらく既に絶滅の危機に瀕しているか、または絶滅した可能性があります。しかし、それらの交尾のために、女王蜂はたくさんの蜜蜂の卵を産みます。それらは後に孵化して若い蜜蜂になります。

実行する特定の義務があるのは、雄の蜜蜂や雄蜂だけではありません。実際には、蜜蜂の蜂群の各一員が果たす義務があります。たとえば、女王蜂は蜜蜂の蜂群全体の保護を担当しています。蜜蜂たちの蜂群を侵入者から守るのは女王蜂の責任です。そして、女王蜂は非常に大きな責任を負うので、女王蜂は食べ物を探すために出かける必要はありません。その義務は働き蜂に帰属します。

働き蜂は、女王蜂のための蜜を集めるために、ある花から別の花へと彷徨って出て行くものです。働き蜂は、花から蜜を吸って集め、それを巣箱に持ち込むことで、女王蜂に安定した食物を届けることができます。蜜が蜜蜂たち口を通ると、蜜は次第に蜂蜜に変わり、働き蜂がハニカム構造に蓄えます。女王蜂は自分のために保存されているすべての蜂蜜を消費することができないので、過剰分は人間によって消費されます。

蜂蜜、特に蜂の巣は、甘い味がするだけでなく、人間の健康にも非常に有益です。実際、蜂蜜を食べることは聖書に勧められています。

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箴言 24:13
わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。

私たちは、聖書に書かれた神のすべての宣言をいつでも当てにすることができます。蜂蜜は確かに良いです。実際には、人体に必須な鉱物と栄養がすべて含まれているため、完全な食品と見なされています。その完全性は、赤ちゃんの完全な食品としても考えられている乳に例えることができます。

神がイスラエル人をエジプトの国から救出なさった時、神は彼らを牛乳と蜂蜜が流れる土地に連れて行くと約束しておられたことを覚えておく必要があります。

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出エジプト記 3:8
わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。

それは、神の民がその土地で栄養を欠くことはないということを意味します。若い人も老人も、完全な食糧の供給があります—赤ちゃんのための乳と大人のための蜂蜜。但し、ハチミツは、乳児や一歳未満の子どもには与えないでください。生命に害を及ぼす可能性があります。だから、蜂蜜の代わりに、赤ちゃんたちには乳を与えられるべきです。実際には、大人の方でも、適量の蜂蜜を摂取することをお勧めします。

聖書によると、人は過度ではなく、十分な量の蜂蜜を食べるべきです。

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箴言 25:16
蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べすぎて吐き出すことがないように。

十分な量以上の蜂蜜を摂取すると、血糖値が上昇し、嘔吐を引き起こす可能性があります。

私が強調したい点はこれです。蜜蜂たちが自分たちの存在意義を果たすことに忠実でなかった場合、すなわち、雄蜂が女王蜂との交尾において、自分の命を危険に晒すことを拒否した場合、同様に、働き蜂が女王蜂のために蜜を集めて保管しない場合、そして、女王蜂が若い蜜蜂になる卵を産み、孵化することに失敗した場合、彼らの蜂群が確かに滅びるだけでなく、最も特に、人間は蜂蜜の健康と治療効果の恩恵を受ける機会を得られません。どうやら、蜂蜜はもともと女王蜂の摂取を目的としていますが、人間もそれから恩恵を受けています。言い換えれば、人間は蜜蜂の勤勉な働きの最後の受益者となったのです。

実は、木、牛、魚、豚、鶏などの他の被造物について話しても、彼らの存在の最終的な受益者も人間であることが分かります。彼らは栄養を必要とする人間を維持するために存在します。彼らはその目的を果たすことができるので、彼らの存在は意味のあるものになります。

さて、人間以外の生き物が明確で高貴な目的のために存在する場合、同じことが人間にも当てはまるはずです。人間はまた、特定の目的、または義務を果たすために存在し、それも人間が果たすべきものです。そして、その義務は神に仕えることです。人間は自分の人生を無目的にそして無用に費やしてはなりません。代わりに、人間はそれを自分の全義務であるので、神を敬い、神の戒めを守るためにその命を使わなければなりません。

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コヘレトの言葉 12:13
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

人類の全義務は、生命の創造主でおられる神に仕えることです。私たちは、私たちの命と存在を神に借りていのです。

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使徒 17:28
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。
ですから、私たちの命が私たちの創造主に奉仕するために費やされることは正当ですが、神無しでは、私たちは地球上に存在することは出来ません。

悲しいことに、人々はそのことに気づかなかったので、彼らは主を殺しました—主は神の御子で、いのちの君でもおられる方です。

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使徒 3:15
いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

主イエス・キリストに愛と感謝を示し、主に仕える代わりに、彼らは主を殺してしまったのです。

確かに、私たちが存在意義を理解できず、私たちの命の意義を発見できなければ、漂泊者や怠け者、あるいは快楽主義者になってしまうかもしれません。

命の意義を理解することは、まず私たちの存在意義と私たちが果たさなければならない義務を知ることです。そして、私たちの命を意義あるものにすることは、私たちの義務を果たすことと私たちの目的を果たすことです。

人間として、私たちの目的と私たちの全義務は神に仕えることです。その義務は私たちの命に意義を与えるものです—それ無しでは、私たちの命は無意味で無意義になります。ですから、私たちの命が意味と目的のあるものになって欲しいのであれば、神に仕えることに費やさなければなりません。そして、神に仕えるとは、神を敬い、神の戒めを守ることです。

神の祝福がありますように!

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この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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これまでに最も快い声々

9月 07, 2020 0 Comments

聖書が神の従者たちに教える基本的な教義の中の一つは、神を称賛する賛美歌を歌うことです。神に賛美歌を歌う習慣は、神の初期の従者であった古代イスラエル人の時代にまで遡ることです。そして、聖書の説明によると、彼らは、歌の際に伴奏するために、サルタリー、ハープ、十弦楽器などの特定の楽器を使用しました。

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詩編 92:1
主に感謝するのは、良いことです。いと高き方よ。あなたの御名にほめ歌を歌うことは。

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詩編 92:3
十弦の琴や六弦の琴、それに立琴によるたえなる調べに合わせて。

同様にクリスチャンたちは、詩編、賛美歌、そして霊的な歌を神に歌うように諭されています。これらの歌は、兄弟を啓発し、擡げて、鼓舞させる手段でもあります。

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コロサイ 3:16
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

そして、私たちが神に向かって歌う度に、心の中で優雅にそれを行わなければなりません。人間は一般的に、音楽の本質的な愛好家です。実際に誰もが、そして、他のすべての人のために書かれ、歌われている膨大な数の曲がその証拠です。

例えば、愛国心、愛、祖国への忠誠心が表現されている、自分の国向けの歌があります。実際、すべての国には独自の国歌があります。国歌は、老若男女を問わず、重要な式典や手続きが始まる前に歌います。無条件の愛と犠牲のために最愛の両親に捧げられた歌もあります。一方、カトリック教徒には、マリヤを称賛するための曲がたくさんあります。自然と宇宙の美しさに感歎と驚嘆を表す歌があります。そして、人々がそれぞれの友人や愛する人のために歌う何百万数もの曲もあります。

私たちが彼ら全員のために感情と熱意をもって歌を歌えるのなら、私たちの創造主に賛美歌を歌い、私たちの信仰、感謝、賞賛、そして主の愛ある親切さへの感謝を表現することは、より相応しいことなのではないでしょうか?あまり心地よい歌声がなくても、音程が外れのある歌い方でも問題ありません。重要なのは、心の中で誠意と優雅さをもって神に向かって歌っているということです。

キリストと使徒たちも神に賛美歌を歌ったことは確かです。聖書は、使徒たちが素晴らしい歌声を持っていることを私たちに確認出来ませんが、私は主イエス・キリストが快くて魅力的な御声を持っていると本当に信じています-これまでに聞いた他のどの声よりも快くて魅力的です。

主イエス・キリストの御声は、快い響きであることに加えて、羊の群れによって認識され、従われる特定の優艶な魅力と権威を伴います。

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ヨハネ 10:3
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。
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ヨハネ 10:4
彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。

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ヨハネ 10:5
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」

羊は主イエス・キリストの御声を認識し、聞き、そしてそれに耳を傾けます—羊たちが主を自分たちの羊飼いとして認めているという現われです。

文字通りの羊は、自分たちの羊飼いの声に親しみと従順であることを証明し、見知らぬ人の声ではなく実際の羊飼いの声だけに従うという科学的実験の映像があります。



映像の3人が牧草地で放牧している羊たちを呼び寄せようとしました。男性は聴覚可能な距離にありましたが、呼び出しによって注意を払った羊はいませんでした。羊たちのどれもが男性の声を認識する兆候を示しておらず、それらのいずれからも僅かな身体的な反応すらありませんでした。しかし、本物の羊飼いが羊たちに点呼をかけたとき、羊たちはすぐに羊飼い主の呼びかけに応じました。羊たちは羊飼い主の声を知っていたので彼に従った。

ヨハネ10:3-5で言及されているキリストの「御声」は、実際に聞こえる声を指しているわけではありません。御声は主の教えと戒めを象徴しています。

文字通りの羊たちと彼らの文字通りの羊飼いの声への従順は、主イエス・キリストに従う者たちの主の声や主の教えへの従順に例えることができます。言い換えれば、真のキリストの信者や真のクリスチャンは、主の声、主の教えや戒めに耳を傾けるだけではなく、彼らはそれらのことに従います。そして、彼らはキリストに属する教え以外の如何なる教えにも従いません。

私は敬虔なカトリック教徒の家族から来ました。私の母はフィリピン国内にあるバクララン市でのカトリック教会の入り口から祭壇までずっと膝をついて歩いていました。ラウニオン州のナギリアン市出身の父と祖父母もカトリック信者でした。

私の母はカトリック教徒としての人生を通じて、儀式の間に司祭が数節を読むことだけ、読んだ聖句には何の説明も与えられず、物語を読み進めてるだけのことで慣れていました。しかし、母がキリストの御声を聞いたとき、つまり、カトリック教会の司祭から聞いたことのない教えを聞いた時、母はすぐにキリストの御声に応えました。彼女はカトリック教会を出て、神の教会でバプテスマを受け、そこでキリストの御声が仰せられたことを成就し続けました。それは、ある人間がキリストの羊の群れの中にいる場合、彼または彼女は確かに主の御声を認識して、躊躇うことなくその人が主に従うことで証明されるのです。

キリストの御声は優しい響きと魅力的なものの両方であると確信しています。これが私の母の関心がすぐに捉えられた理由です。彼女はそれに抵抗することができませんでした。

一方で、使徒たちの声々にも快い響きがあるかどうかはわかりません。しかし、私が確信しているのは、彼らが称賛の歌や、賛美の歌をも神に歌ったことです。

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マタイ 26:29
ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

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マタイ 26:30
そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

キリストと使徒たちが賛美歌を歌った後、オリーブ山に行きました。これは主イエス・キリストがイスカリオテのユダに裏切られた夜でした。

私たちは個人的にキリストの御声を音声で聞こえませんが、主イエス・キリストの御声は、世界がこれまで聞ける声々の中で最も美しい御声であると確信しています。そして、御父の御声の壮大さと壮麗さだけがキリストの御声の美しさを超えられます。ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネは御父の御声を聞くことができました。また、ヨルダン川で主イエス・キリストにバプテスマを施したときも、バプテスマのヨハネはその御声を聞けました。

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マタイ 3:17
また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

誰も異議を唱えることのできない真実の一つは、御父、御子、御霊の声々が、これまでに聞いたことがない最も快く、最も崇高で、最も愛情深く、そして、最も魅力的な声々であることです。そして、そのような特質は彼らの教えにはっきりと反映されています。アーメン。

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この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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「聖霊は単に活発な力だろうか?聖書はそうではないと述べる

8月 30, 2020 0 Comments


ほとんどの人は、御父と主イエス・キリストの神性について明確な理解を持っていますが、聖霊が同じ属性を持っているかどうか、そして私たちが御父と主イエス・キリストを礼拝し、崇める方法で聖霊をも礼拝し、崇めるべきかどうかには、多くの人は依然として不確かのままです。

実際に、宗教指導者でさえ、聖霊に対する見方は様々なのです。聖霊は「慰めて下さる者」だと言う集団もいれば、「単なる活発な力」であると信じる集団もいます。

しかし、聖霊が神格であるかどうかについて結論を下す前に、まず、この問題をより広い視点から検討することをお勧めします。

預言者イザヤの預言的宣言から始めましょう。

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イザヤ書 53:1
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

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イザヤ書 53:2
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

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イザヤ書 53:3
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

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イザヤ書 53:4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

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イザヤ書 53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

上記の聖句らでは、主イエス・キリストは「主の御腕」と呼ばれています。具体的には、主キリストは、神がイスラエル人をエジプトの国から救出して下さった神の御腕でした。

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申命記 5:15
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

強大な御手と御腕を伸ばされ、イスラエル人はエジプトの国から連れ出されました。私たち全員が「御腕」とは何か、「御手」とは何かを知っています。それらは人体の一部ですね。腕と手は、腕なしでは手が機能しないように互いに接続されています。

別の聖句で言われているのは、

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ルカ 11:20
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。

主イエス・キリストによると、主は「神の御指」を使って悪魔を追い出していました。キリストが悪魔を追い出すために用いられた「神の御指」は、何か他のものを表すために用いられたので、文字通りに取られるべきではありません。

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マタイ 12:28
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

神の御指は、神の霊または聖霊を象徴しています。つまり、主イエス・キリストが悪魔や悪霊を追い出すのに用いられたのが聖霊です。

私が打ち込もうとしている点はこれです。
【主イエス・キリストはことばであり、初めからは神とともにおられました。そして、聖書によれば、ことばは神です。】
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黙示録 19:13
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

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ヨハネ 1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

さて、召されていて、またはその名が「ことば」と「神の御腕」でおられる主イエス・キリストが神でおられるならば、私たちも聖霊を「主の御指」であると信じ、神という存在であると見なすなら間違っていません。神の一部なのです。神の「御腕」が神なら、神の「御指」も神でなければなりません。 (あなたが方程式に追いつくことが出来ていることを願っています。)そもそも、神の一部なのに、神ではない神の一部が存在することはあり得ません。

グアバの木のように、グアバではないグアバの木の部分はありません。その根から、その枝や葉、その果実まで、それらはすべてグアバです。私の議論には聖書の知恵があるので、私が言うのは単なる学者の視点ではありません。

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ローマ 11:16
初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

ここで、使徒パウロはオリーブの木を比喩的に使用しました。そして、彼はまたオリーブの木の部分に言及しました。その根、枝、葉、果物は、すべて一つの特定の木の構成要素であるため、共通の属性を共有します。

聖霊が神の一部で、「神の御指」であるという広大で、計り知れぬ、計り知れない力なのです。キリストは「神の御腕」でもおられ、「ことば」でもおられるので、キリストも神の一部なのです。繰り返しますが、「ことば」であり「神の御腕」である主イエス・キリストが神であるならば、「神御の指」である聖霊も同様に神であるということになります。聖書が神と呼ぶ「唯一の方」のすべての部分は神です。神のどの部分も、神ではない部分はありません。

理解しにくいとは思いません。エホバの証人の牧師と同じように、低能な牧師だけが、「聖霊は単に活発な力であり、神ではない」と言うでしょう。彼らは、聖霊を傷つけているだけでなく、聖霊を侮辱しています。

聖霊は神の一部であり、神様とは別な存在なので、私たちも聖霊に祈りをします。

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ユダ 1:20
しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、

確かに、クリスチャンたちが祈る対象として存在しない場合なら、ユダ(裏切り者ではない方)は、クリスチャンたちに聖霊に祈るように諭しません。私たちは、存在しない者に祈りません。御父、主イエス・キリスト、聖霊にはそれぞれの存在があるので、私たちは彼らに祈ります。御父とキリストとは、聖霊はまた異なる存在なので、私たちは聖霊にも祈ります。

それが、聖霊が使徒たちの元へ遣わされた理由、彼らが別の助け主(慰める者)を持つためという理由です。主イエス・キリストがまだ使徒たちと初期のクリスチャンと共におられた時、主は助け主(慰める者)でした。キリストが彼らとずっと長く一緒にいることはできなかったため、主が天に昇る前に、主は使徒たち、彼らに別の助け主(慰める者)を送るようにと御父に願って下さると告げておられました。

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ヨハネ 14:16
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

KING JAMES VERSION (英語版)
JOHN 14:16
And I will pray the Father, and he shall give you another Comforter, that he may abide with you forever;

助け主(慰める者) = 英語版では Comforter となっています。

実際に、現在の助け主(慰める者)は、聖霊であり、御霊とも呼ばれています。

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ヨハネ 14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

助け主(慰める者)として、聖霊は使徒たちに教えたり、主イエス・キリストが彼らに告げておられたすべてのことを彼らに思い起こさせました。

実際には、聖霊の神格を疑う理由は本当にありません。聖霊と主イエス・キリストはどちらも(ヘブライ語では Elohim)または(ギリシャ語ではTheotes)の一部であります。(ヘブライ語では Elohim)または(ギリシャ語ではTheotes)は「神々」を意味します。ですから、主イエス・キリストが神なら、聖霊も神です。

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神様と主イエス・キリストは常に忙しい

8月 23, 2020 0 Comments


普通の人間として、私たちは時々、御父と主イエス・キリストが今天国で何をしているのか?何が彼らを忙しくしているのか?を知りたいと思いますね。

彼らは、私たちが地球上で行なっていることを単に見ているだけでしょうか?あるいは、彼らは人類に関係する非常に多くの差し迫った問題に対応するのに忙しいのでしょうか?

聖書のいくつかの聖句を参照することで、私たちはそれらに没頭している事柄についての考えられることがあります。主イエス・キリストから始めましょう。

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ヘブライ 8:1
以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、

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ヘブライ 8:2
人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

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ヘブライ 8:3
すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。

現在、主イエス・キリストは天国にいて、神の御座の右手に座しておられています。私たちが主キリストが主の王座に着席または着席しておられていると言うとき、私たちは主が単に文字通りずっと座っていて、何もしていないという印象を持つべきではありません。

王座に座るということは権力を持つことを意味します。したがって、主イエス・キリストは権力の座におられます。そして、主の役割は、成し遂げられる必要がある非常に多くの義務と責任を伴います。

主イエス・キリストが果たす義務の一つは、大祭司の義務です。主は私たちの大祭司であるため、天の祭壇で贈り物や犠牲をささげることを使命とされています。

イスラエル人の時代には、彼らは罪の赦しのために山羊、羊、牛をささげ、それらのささげ物を受け入れたのは祭壇で神にささげる大祭司でした。

キリスト教の神権時代において、その任務を遂行するのは主イエス・キリストです。何故なら主は私たちの大祭司だからです。天国には神様が建てておられた神殿と祭壇があります。そして、羊や牛ではなく、それは主イエス・キリストがご自身のしもべである彼らの祈り、賛美、賛美歌、誓い、そして感謝祭の供え物を神に示されたそれらはその祭壇の中にあります。

主イエス・キリストは私たちの神への仲介者としての役割を果たしておられています。主は私たちのためにとりなします。罪人である私たちは神に近づく価値がないので、私たちは神のとりなしを必要としています。しかし、キリストの仲介を通して、神は私たちの捧げ物を受け入れてくださいます。したがって、私たちの罪は許されています。

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ヘブライ 13:15
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

KING JAMES VERSION
HEBREWS 13:15
By him therefore let us offer the sacrifice of praise to God continually, that is, the fruit of our lips giving thanks to his name.

英語版のその節の代名詞「彼(he)」は主イエス・キリストを指します。主によってと主を通して、私たちの賛美と感謝は神に届くことができます。何故なら、キリストは神と人との間の唯一の仲介者だからなのです。

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テモテ 一 2:5
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

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テモテ 一 2:6
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

私たちが配偶者に与える愛、仲間への援助、家族への支援と世話、そして私たちが行なうすべての良い働きを含む、私たちのすべての犠牲と捧げ物は、主イエス・キリストによって神へ示されます。これらに加えて、聖書は同様に供え物とみなしている誓約、断食、献金、慈善事業、および神のしもべの祈りがあります。

大祭司の職務以外にも、主イエス・キリストが忙しいこともあります。

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ヘブライ 1:13
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

神が主イエス・キリストに「わたしの右の座に着く」ように仰せられた時、それは御父が主に名誉と権力の座に座らせることを意味します。主は天国と地球を王として支配する権威をキリストに与えておられています。

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マタイ 28:17
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

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マタイ 28:18
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

天と地のすべての力は主イエス・キリストに与えられました。主はすべての肉体を支配しています。

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ヨハネ 17:2
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

御父が主に与えた力には、人に永遠の命を与える力が含まれています。したがって、キリストの機能の一部は、永遠の命を楽しむために人間を救うことです。そして今まで、キリストはその意図の実現に向けて働いています。つまり、進行中の作業です。

他の人は、主が天国にいるときに人を救う機能をどのように果たすことができるのかと尋ねるかもしれません。

簡単です。主イエス・キリストは御使いたちを遣わし、主のしもべを害から解放します。主はまた、聖霊を遣わし、ここにいる地球上の人々に教え、導きます。そして主の御霊は、しもべらが主の福音をすべての人に広めるとき、神の説教者たちと一緒に行きます。

明確にしましょう—キリストは神の説教者たちだけと一緒に行き、すべての説教者たちと一緒にいるだけではありません。確かに、神の御言葉からお金を稼ぎ、宗教から儲かる商売をする説教者どもと主が一緒に行くことを期待しないで下さい。主は、人々が救われて永遠の命に値するように人々を神に戻すという誠実な意図を持って、忠実に福音を教える説教者たちと一緒になりますから。

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マタイ 28:19
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

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マタイ 28:20
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

キリストは、彼らが主の教えを説教するために出かけて行った最後の使徒たちと一緒にいたであろうという保証を、初期の使徒たちに与えました。キリストの御約束の成就は、彼らが福音を説教するときに、キリストの御霊の導きを感じたパウロやバルナバのような後期の使徒たちによっても体験されました。

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ローマ 16:25
私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、

謙虚さはさて置き、私が説教するとき、私がさまざまな人々の信仰の質問に答えるとき、そして、私がキリスト教の信仰を擁護するときはいつでも、私はキリストの御霊の導きを証言することもできます。

もう若くないので、忘れがちになることもあります。引用したい聖書の特定の書の特定の章や節を簡単に思い出せないことが時々ありました。しかし、それが起こるときはいつでも、キリストの御霊がすぐに私の助けて下さり、非常に迅速に、私が引用したい聖句を頭に浮かび上がらせてもらっています。

いつも、私に与えられた状況にて私が人々に伝えなければならない主の御言葉を、私に供給するのに、主の御霊は決して失敗しません。そして、私は心の中で、すべての国で弟子を作るという主の命令を果たすとき、間違いなくキリストの御霊が私と共にいることを知っています。

主イエス・キリストは常に主の御約束「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」に忠実であります。そして、世界がまだ終わっていないので、その御約束は今でもまだまだ有効です。汚れのない神の教えを教える説教者たちがキリストの御霊に伴われて導かれることを期待できます。

主イエス・キリストは人々をご自身に近づけたいので、主の説教者たちが主の御言葉を人々に教える際に一緒に行きます。人々が一つの真の信仰を見つけることができるように道を見つけだして下さるのはキリストなのです。

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ヨハネ 12:32
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

キリストがまだ人の姿で地上におられた時、主はイスラエルでのみ説教することができました。主の人体ができることには限界があったため、主はフィリピンなどその当時、既に存在していた世界の他の部分に到達することができませんでした。主は同時にいくつかの場所にいることはできませんでした。

主がイスラエルで説教していた当時、フィリピンはすでに存在していたと言われています。文書に基づいて、イフガオのフィリピンの棚田は今から3000年前に建設されたからです。キリストが2000年前に地上で説教しておられたため、主が説教していた当時でも、フィリピンのイフガオの棚田が長い間に既に存在していたことを意味します。 


しかし、天に昇る前に、主の肉体が輝かしい霊的な体に変わったとき、すべての人を主に引き寄せることを約束して下さいました。その変化が実現されたとき、主は制限によってもはや妨げられませんでした。主は実際にはご自身ではなく、主が送る説教者の手段を通して、地球上のどこにいてもどんな人にも近づくことができました。そして、主は人々を主の教えに引き付けたり、引き寄せたりする原動力なのです。

非常に明確に、主イエス・キリストは天国で席を外しているのではありません。主はたくさんのことを担当するのにとても忙しいなのです。先に述べたように、主イエス・キリストは天と地を支配しておられています。これは、主がそのしもべたち、さらには天使、智天使、 熾天使たちさえをも支配していることを意味します。

天国の御使いたちは、主の指揮下にあります。実際、主は救いの相続人となる者たちを守るために御使いたちを地球に遣わしました。

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ヘブライ 1:14
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

天使たちは御霊を仕えていて、彼らは事故から神の民を救うように任命されています。それが彼らが守護天使と呼ばれる理由です。あなたが神に属するのなら、あなたが神を恐れるなら、あなたには守護天使がいます。

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詩編 34:7
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
私たちは天国で起こるすべてを正確に知っているわけではありませんが、主イエス・キリストが常に非常に忙しいことは確かです。

御父はどうでしょう、御父は同じように忙しいでしょうか?確かに、御父の方が忙しいのです。

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使徒 17:26
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

御父は、人間が住むために地球上のすべての国を作りました。それだけでなく、御父は私たちが生きている理由でもおられています。

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使徒 17:28
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。

神は私たちの創造主です。私たちは神に私たちの生活と存在を借りているのです。私たちは神のために存在します。神は私たちの生活を維持しておられています。神は私たちが生き残るために私たちに必要なものすべてを私たちに提供して下さっています。

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使徒 17:25
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

神は人生における私たちのすべての必要品の提供者なのです。神は私たちが、私たちの食糧不足に陥ることはないようにと考えています。したがって、神は作物を成長させ、豊かに収穫させます。神は私たちの空腹を満たすために海の魚を増やします。

神は自然の複雑な構造を作り、私たちが新鮮できれいな空気と水、そして全体として健康な環境を持っている私たちの生存に不可欠な生態学的調和を維持してておられています。主イエス・キリストが私たちの魂の救いを担当している間、御父は私たちが必要とするすべての物事の偉大な提供者です。

御父はまた、誰が生き、誰が死ぬかについて非常に厳しい決定を下す方でもあります。私たちは、私たちの生活が神の御手にあることを知っています。

神はまた、たとえ人々の要求がたまたま自己中心的だったり、他の人の祈りと矛盾しているとしても、人々の祈りと懇願に取りかかって下さっています。実際、人々はしばしば二つの対照的なことを求めますからね。

例えば、農夫は自分が豊富な収穫を得るために自分の作物が育つように雨が降ることを祈るかもしれません。一方、同じ村に住んでいる製塩業者は、雨水が塩を溶かしてしまうので、雨が降らないようにと祈っています。彼は海の塩の生産者なので、雨の代わりに、彼の塩水が乾燥し、結晶化し、できるだけ早く収穫されるように、太陽の灼熱の熱を祈ります。私たちは、御父が人間だけの祈りに取り組む際に直面する困難を想像することができます。

繰り返しますが、私たちは天国で実際に何が起こっているのか正確にはわかりませんが、聖書は御父と主イエス・キリストがそこにいかに忙しいかを垣間を見せてくれます。そして、彼らを忙しくさせているのは、すべて人間の利益のためであると確信しています。

神と主イエス・キリストにすべての栄光を!

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この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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憎まれてる真っ只中に、神に喜ばれることをしてみませんか?

8月 16, 2020 0 Comments

私が説教する主イエス・キリストの福音聞く機会を得た真実の探求者たちは、必然的に神に仕え、Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)の一部となるという強い欲求を育みます。それだけではなく、彼らが感じる圧倒的な喜びの故に、彼らはまた、彼らが学んだこと、彼らが見つけた真の教会に加わることを彼らの愛する人たちにも学べて、加わって、そして一緒に神様に仕えられることを望んでいます。

残念ながら、時々、物事は常に彼らが望むものに従って起こるとは限りません。彼らの愛する人たちが宗教を変えるという考えに抵抗するだけでなく、私の説教するキリスト教の教義に耳を彼らが傾けることを彼らの愛する人たちが妨げる場合もあります。

更に悲しいのは、彼らの愛する人の異議と抵抗は、教義の問題などの確固たる根拠に基づいているのではなく、主に感傷性に基づいているということです。真実の探求者である彼らの両親や祖父母は、聖書に反したり、誤った信念や慣習に関係なく、人生で慣れたからだけで彼らに導入された宗教に固執することを望んでいます。

これらの真実の探求者たちは、このような人々や愛する者たちも救われて欲しいので、彼らの愛する人たちが示す反応で、彼らが彼らの友人や家族を神の教会に加わるように説得する方法の苦境に直面しています。

これは実際、多くの人が経験する両刀論法です。しかし、聖書は愛する人を神に仕えるように導く方法を教えているので、それほど大きな問題ではありません。

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ペトロ 一 3:1
同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

聖句によると、妻は夫の回心に役立ちます。彼女は言葉を使わなくても彼を信仰に導くことができますが、それは善行をすることによってのみです。彼女の善行は十分すぎるほど語ることができるので、妻は夫を説得するために説得力のある言葉を使用する必要はありません。格言が言うように、行動は言葉よりも雄弁です。

神の教会で教えられている主イエス・キリストの教えへの従順のために妻に起こっている肯定的な変化を夫が見ると、何も言わなくても、妻が加わった教会が本当に神のものだと夫は快く信じます。夫は最初に好奇心を育て、後に神の教会に参加することに興味を持ちます。

与えられた例は、妻がどのように夫を神に導くことができるかを示していますが、これは家族の他の一員、更には友人や同僚にも適用できます。

あなたが教会で学んだ教えを実践することによって、彼らがあなたに与えるかもしれない冷たい扱いにもかかわらず彼らに良い行いをすることによって、彼らはあなたが神の教会に加わることにおいて間違っていないことを心の中で知ることになるでしょう。そして、あなたがそれを知る前に、彼らはあなたの神への奉仕においてあなたと共にいます。ですから、善行をすることに飽き飽きしないでください。

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ペトロ 一 2:12
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

あなたが良いことを続け、あなたについて否定的なことを言っても、人々を親切に扱い続ければ、神を認めない人でも、神を認めることを学ぶ時が来るでしょう。彼らはまた、神を賛美します。

同じ苦境を経験している人々への助言の一つ:他の人々の拒絶を恐れないでください。彼らの意見が神に仕えるというあなたの願望を妨げられないようにしてください。あなたが持つ必要があるのは、使徒たちが持っていたある種の信念です。そして、あなたの一番の関心事は、他の誰よりも先に神に従うことです。

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使徒 5:29
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。

私たちの従順は、優先的に神に与えられるべきであり、私たちの家族や友人ではなく、金持ちや有力者ではなく、他の誰にも与えられるべきではありません。神は私たちの創造者です。神は私たちの命の所有者です。それだけでも、私たちが絶対的な従順、完全な献身、そして留保なしの愛を神に与えることは適切なことです。

配偶者、両親、兄弟姉妹、友人を愛することには何の問題もありません。彼らの世話について何も問題はありません。しかし、神へのあなたの愛は彼らへのあなたの愛よりも遥かに大きいことを取り計らうようにすることです。他の者への愛は、神への愛に次ぐものです。私たちは心を尽くし、魂を尽くし、心を尽くして神を愛すべきです。

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マタイ 22:37
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

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マタイ 22:38
これがたいせつな第一の戒めです。

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マタイ 22:39
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

ですから、もしあなたが神に仕えたいのなら、あなたが神の召しに耳を傾けたいのであれば、恐れることは何もありません。何も邪魔してはいけません。あなたが本当に神を愛しているなら、他に何も問題はないはずです。

他の人が言うことに恐れないでください。そもそも、あなたは彼ら全員を満足させることができないので、あなたが何をするにしても、彼らは常に何か言うことを持っています。だから、あなたは神に喜ばれることをするのが良いのです。

そして、もしあなたが神の教えに従い、そして、あなたが神の教会の管轄下であなた自身を差し出すのなら、それは神にとって喜ばしいことです。そして、一旦、神の教会の中に入ると、あなたは絶えず善行をするように教えられ、それらは、あなたの愛する人たちを扱うときに適用することができます。

そして、神の御助けを借りて、彼らがあなたがどのように良くなったのかを見るとき、あなたが受け入れた信仰を彼らに受け入れさせることはそれほど難しいことはありません。

神の祝福がありますように!

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この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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クリスチャンたちは礼拝堂や神殿を建てるように命じられていない

8月 08, 2020 , 0 Comments

神が礼拝堂のように人の手で作られた構造物に住まわれないのなら、なぜ神はハガイ1:4-9に書かれているように、家を建てるようにイスラエル人に命じたのですか?そして、礼拝堂や神殿を建てないのであれば、どこで神を礼拝しますか?

これらは、「神が信者に神のために家を建てるように命じられた、そして、この家は礼拝堂または神殿であるかもしれない。そして、それらは神を礼拝するのに、唯一の正当な場所だ。」という考えを持っている人々からの質問です。

ソロモンが神のために神殿や家を建てたことは事実です。最初にそれを構築することを計画したのはダビデでしたが、この計画はソロモンの治世中に実現されました。

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列王記上 6:1
イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。

非常に具体的な詳細は、聖句によって提供されています。ソロモンはイスラエル人がエジプトを出てから480年後に主の家を建て始めました。それはイスラエルの王として彼の統治の4年目でした。そして、それはヘブライ暦の2番目の月である月「Zif」から始まった。

その建設が完了すると、ソロモンはそれを神に捧げました、そして、その間に彼らはそこに神の存在を感じたという説明がありました。

それ以来、神はモーセを通してイスラエル人に、彼らが神を礼拝したり、十分の一を払ったり、彼らの焼かれた供え物やいけにえを捧げたりする時はいつでも、神の家に行くように命じられました。

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申命記 12:5
ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

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申命記 12:6
あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。

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申命記 12:7
その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

それは彼らが従わなければならない法律でした。彼らは、彼らの義務と神への誓いを果たすために、エルサレムのソロモンによって建てられた主の神殿までずっと行かなければなりませんでした。

しかし、彼らの一部がエルサレムから遠く離れて住んでいた人々もいたことで、彼らが提供するのが彼らの農産物の十分の一である場合、野菜や彼らの作物の果物や他の生鮮品など、彼らはそれらの品物を神殿まで持参する必要はありませんでした。代わりに、それらをお金に変換する必要があります。つまり、最初にそれらの品物を販売する必要があり、それらの商品の販売から調達する金額をエルサレムに持ち込む必要があります。

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申命記 14:24
もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、

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申命記 14:25
あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。

残念なことに、時が経つにつれ、イスラエル人は礼拝し、祈り、供え物を主に供えていた主の神殿または家の世話を怠りました。彼らの過失故に、主の家は捨てられて荒廃しました。

イスラエル人の過失による神の家の破壊という周囲の状況は、ハガイ1:4-9での神の宣告の背後にありました。

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ハガイ書 1:4
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。

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ハガイ書 1:5
今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

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ハガイ書 1:6
あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

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ハガイ書 1:7
万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

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ハガイ書 1:8
山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。

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ハガイ書 1:9
あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

主は、イスラエル人が実際に離れ離れになっているのを見ても気にならなかったので、神の家を当たり前のようなものだと見なした一方、それぞれの彼ら住居は細かく建設され、よく管理されてたことに対する神の憤りをイスラエル人に表明しました。

最終的に、イスラエルのこの神殿または宮は破壊されました。主イエス・キリストご自身は、マタイ24:15でその破壊を予言しました。

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マタイ 24:15
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

主イエス・キリストは、預言者ダニエルによって話された、聖地での忌まわしい荒廃について言及しました。この予言は、エルサレムの神殿の差し迫った破壊に言及していました。主イエスキリストによると、それは完全な破壊となり、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。 」と。

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マタイ 24:1
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

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マタイ 24:2
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

私たちの考えが「神を礼拝することは神殿や礼拝堂でしかできない」としたら、エルサレムの神殿で起こったことのように破壊されたとしたらどうでしょうか?

神殿が全滅したからといって、神を礼拝することができなくなったということですか?そうではないはずです。真実は、神殿や礼拝堂に行かなくても神を礼拝できることです。

主イエス・キリストがサマリア人の女性がヤコブの井戸にて彼女と会話したときに彼女に言及したことにより導かれましょう。

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ヨハネ 4:20
私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

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ヨハネ 4:21
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

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ヨハネ 4:22
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

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ヨハネ 4:23
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

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ヨハネ 4:24
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

主イエス・キリストはサマリヤ人の女性に、神を礼拝するために山やエルサレムに行く必要がない時が来ると告げられました。そして、真の礼拝者が霊と真理で御父を礼拝する時も来ること。主イエス・キリストが話していた「時」こと、サマリア人の女性と話している間、まさにその瞬間にその予言が始まりました。

つまり、その瞬間に、神を礼拝したい人は、自分の家でも神を礼拝できるので、礼拝堂や神殿などの指定された場所に行く必要が無くなります。

そして実際には、神を礼拝するとき、スタジアムやコロシアムのような大きな会場で人々を強制的に集める必要はありません。主イエス・キリストによると、神の御名で2人または3人が集まれば、神は彼らの真ん中におられる、と。ですから、その場所とそこに集まった人々の数に関係なく、彼らが神の御名で集まっている限り、神は彼らの真ん中におられます。

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マタイ 18:20
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

これは、彼らが主イエス・キリストの教えへの信仰のためにユダヤ人によって迫害されている間に、使徒たちによって満たされました。当時の状況は彼らの安全を保証することでは無かったので、神殿に行くのではなく、彼らは、彼らの集まりを窓や扉が閉ざされた彼らの家にて保持しただけでした。そして、確かに、主イエスは彼らの真ん中に来られました。

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ヨハネ 20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

状況が彼らと他の人々の安全を危うくしないならば、初期のクリスチャンは神殿に集まりました。しかし、状況が彼らの生活に脅威をもたらすならば、彼らは兄弟たちの家にだけ集まっていました。

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使徒 20:7
週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。

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使徒 20:8
私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。

これは、兄弟たちが神殿ではなく、家に集まり、使徒パウロの説教を聞いた時です。

主イエス・キリストが来られたとき、以前にイスラエル人によって信じられ、観察されていた多くのことを主キリストが修正して下さったことを理解する必要があります。それらの1つは、使徒パウロによって使徒17:24で言及されました。

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使徒 17:24
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

=====

上記の聖句で、使徒パウロは、神は天と地の主であり、世界とその中にあるすべての創造主でありため、神は人の手によって造られた神殿にとどまらないと仰せられました。しかし、マナロ氏のイグレシア・ニ・クリスト(INC)は、使徒パウロが宣言したことに同意しないようです。彼らの公式出版物で表明されているように、彼らは神の霊が礼拝堂や礼拝所に宿っていると信じているからです。

:英文:
We are summoned by the Lord God to serve Him in the Body or the Church of Christ. We have to worship Him in the house where His Spirits dwells, like the modern house of worship pictured above.

:翻訳:
私たちは主なる神に召され、からだまたはキリストの教会で彼に仕えます。私たちは、上の写真に写された現代の礼拝の家のように、彼の霊が住む家で彼を崇拝しなければなりません。

=====

聖書の神の御言葉を根拠として使用すると、マナロ氏のINCは、神の霊が礼拝の家に宿っていることを、彼らにとってどれほど壮大に見えても、かなり誤解していることは明らかです。

確かに、過去、特にイスラエル人の時代には、神の御霊が集まりに来られ、家や神殿に住まわれました。しかし、主イエス・キリストが来られたとき、集会はもはや神殿や礼拝所に限定されなくなりました。主イエス・キリストが来られた時、神権に変化があったことを忘れないでください。モーセから、今や神権を握っているのは主イエス・キリストです。ですから神権に変化があったので、法律にも変化がありました。

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ヘブライ 7:12
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、

それが、主イエス・キリストが初期のクリスチャンたちに、神を崇拝して集会を開催するための礼拝堂や寺院を建てるように指示したことを述べている節が聖書にない理由です。

神権が変更された時、契約も変更されました。

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ヘブライ 8:7
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

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ヘブライ 8:8
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。

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ヘブライ 8:9
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。

神は新しい契約を作りました、そして、この新しい契約は主キリストが地上に来られたときに主イエス・キリストによってもたらされました。しかし、純粋に肉体的な条例であったモーセの神権期間中の契約とは異なり、主イエス・キリストの神権の下の契約は、より霊的な側面にあります。

ですから、キリスト教の神権時代において、礼拝やその他の集会が開かれるべき場所はもはや問題ではありません。事実、1世紀後半のクリスチャンたちは兄弟の家にも集まりました。

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ローマ 16:3
キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

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ローマ 16:5
またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

プリスカとアクラは夫婦でした。二人とも神の従者でした。そして、彼らの家は教会の集まりの場として役立っていました。

ラオデキアの兄弟たちは、同様に別の兄弟の家に集まりました。

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コロサイ 4:15
どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。

クリスチャンたちは神殿や礼拝堂を建てるように命じられていません。何故なら、彼らは家の中や借りた場所でさえ集会を開くことができるからです。実際、キリストの使徒の間には、誰も神殿や礼拝堂を建てず、兄弟たちに建てるようにとも指示されませんでした。彼らは、主イエス・キリストが仰せられたように、真の礼拝者はもはや長い旅をして、神を礼拝するために指定された場所に行く必要がないと仰せられました。彼らは、霊と真理で父を礼拝するべきだからです。

主イエス・キリストの特定の布告が現在より適切であると言えます。特に、今時、人類全体が危機を経験しています。

汎流行があります。人々はウイルスの伝染を防ぐために自分の住居から出ることを思いとどまり、他の国では公共検疫と閉鎖が実施されています。

このような状況を考えると、礼拝堂や礼拝所に行くよりも、それぞれの家で神を礼拝するほうが賢明だと思います。

Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)に関係ある限り、閉鎖、公共検疫、政府による旅行制限にもかかわらず、私たちはまだまだ神を礼拝し、会衆の一定の集まりを行なうことができます。会員たちが安全であるそれぞれの住居にです。私たちは、現代の通信技術を使用して集まることができます。

このようにして、私たちは政府の政策を順守することができ、同時に主イエス・キリストが仰せられたこと・・・

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ヨハネ 4:23
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

を実現することができます。 アーメン!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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真の礼拝は教会の集まりに出席することを越えるもの

8月 07, 2020 0 Comments

神を礼拝することは、霊と真理をもって神を礼拝することです。そして、霊と真理に主を礼拝することは、教会の集まりに出席すること、主の為に賛美歌を歌うこと、そして礼拝堂または礼拝の家の中で主の教えを聞くことだけに限定されていません。
これらの行為が神を礼拝し奉仕することの完全な意味を構成しない場合、どうすれば神を正しく礼拝し奉仕できるでしょうか。

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ローマ 12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

神を礼拝して仕える正しい方法は、私たちの体を生ける供え物として神に捧げることです。これは私たちの霊的な礼拝行為でもあります。

明らかに、クリスチャンに教えられている礼拝の種類は、旧約聖書のイスラエル人が実践していた礼拝の種類とはまったく異なります。当時は、神を礼拝する人々は、既に虐殺されていた牛、羊、子羊、山羊等を捧げなければなりませんでした。そして、それらの獣の血は神殿にまき散らされました。

しかし、キリスト教の神権時代において、私たちクリスチャンが神に供えるすべきものは私たち自身の体です。私たちの体は、私たちの生ける供え物と、神への合理的または霊的な礼拝としての役割を果たします。クリスチャンが神に捧げるすべきなのは金銭的な寄付だけではありません。私たちが神に捧げるべきであるもっと重要な供え物があり、それは私たち自身の体です。そうすることで、私たちは神を正しく礼拝することができます。

問題は、私たちの体を神に受け入れられる神聖な生ける犠牲にするにはどうすればよいかということです。

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ローマ 6:13
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

私たちは自分の体のそれぞれの部分を神の義の道具として使用し、不義や罪の道具として使用していないことを確認しなければなりません。私たちは、ヨブが自分の時代に行なったように、私たちの体を同胞のために善行に使う必要があります。

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ヨブ記 29:15
私は盲人の目となり、足なえの足となった。

つまり、苦痛を抱えている人々に救いの手を差し伸べる場合、または視覚障害者が行きたい場所にその人を導く、または案内するなどの身体障害者に対するサービスを提供する場合には私たちは既に神を礼拝することができます。つまり、体を使って他の人に仕える度に、自動的に神を礼拝しているのです。

しかし、例えば、指を使って銃の引き金を引いて人を殺したり、舌を使って他人を騙す場合や、妻や子どもを殴ったり平手打ちしたりする場合は、あなたは自分を不義の道具にしています。事実、あなたはサタンを喜ばせることをしているので、あなたはサタンに仕えていることになります。

私が指摘したいのは、例え、礼拝堂にいなくても、私たちは神にまだ礼拝し、仕えることができるということです。私たちは、家にいても、職場にいても、学校にいても、道通りにいても、他の場所にいても、神を礼拝し、仕えることができます。

使徒パウロによると、地球の創造主であり、神様である神には、人の手によって直接、仕えることができません。

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使徒 17:25
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

それにもかかわらず、私たちは、同胞のために義を行なうことにおいても、私たちの手だけでなく、全身を用いて神に霊的奉仕をすることができます。

今時、全世界は非常に困難な時期を経験しているので、今は私たちが神の義の道具になることができる非常に良い機会だと思います。確かに多くの人が物質的な助けを必要としていることは事実ですが、それでも多くの人が、聖書の神の御言葉からしか得られない祈りと慰めと安心の御言葉を必要としています。神の御助けがあれば、私たち自身なりに出来る少ししかないことでも、私たちが他の人にこれらのことを提供する器になることができると私は確信しています。アーメン。

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この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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よく差別されているトランスジェンダー(性転換)の人々は神に受け入れられています

7月 26, 2020 0 Comments


とあるトランスジェンダーから、私たちのテレビ番組を定期的に見ることで、神と主イエス・キリストの教えを理解することができたと言われました。そして時が来て、その人は神に仕えたい、私たちのほとんどのように救われたくて、神の教会の一部になりたいという熱心な欲望をその人の心に感じたのです。

しかし、その人の性同一性のために、その人は質問をしました。自分のようなトランスジェンダーがまだ神に受け入れてもらえるかどうか、そして自分が神の教会に入ることができるかどうかを尋ねてきました。

これらの否定的な考えは、トランスジェンダーである人々について、そしてLGBTQコミュニティのメンバー全体について、そのような人たちが「まっすぐな」男性と女性にならない限り、その人たち悪魔のもので、決して救われることができないとその人が他の宗教指導者や牧師から聞きました。。神に属すると主張する説教者の口から直接そのような声明を聞くと、LGBTQ人は自分の事を救済に値しない、相応しくない人だと思い込ませられました。

しかし、それらは説教者の単なる言葉であり、神の御言葉をほとんど理解していないと私はあの人に話しました。

聖書によると、神が望んでおられるのは、すべての人が救われることです。

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テモテ 一 2:4
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

節は「すべての人(英語版では all men)」と言っているのですが、それは人類全体を網羅しています。 「まっすぐな」男性と女性だけに限定されるものではありません。LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア)コミュニティやその他の性的自己同一性が含まれます。

神は、トランスジェンダーである人々を含むすべての人々に救いの機会を与えています-例えトランスジェンダーの人がたまたま手術や過去に何らかの医療処置を受けたとしても。主に、これはその人がまだキリスト教の教義を知らなかった頃、そしてその人がまだ真実の知識を持っていなかった頃にそれらのことを犯したことであり、その人のような人々は神の教会に居場所を持っています。

実際に、教会のとある会員がかつて私に自分がトランスジェンダーであることを告白したことがあります。その人は男性として生まれましたが、教会の会員になる何年も前に、その人の性器をその人の性同一性またはその人が内部で感じる性別に一致させるための手術を受けました。したがって、その人の男性の性器は取り除かれ、女性の性器に取って代わられました。

しかし、その人は主イエス・キリストの教義を受け入れ、過去の罪がすべて赦される聖なるバプテスマを受けた後、神の憐れみを受けました。それから、その人は新たに人生を始めました。その人は以前の生活様式から背を向け、その人は神と主イエス・キリストへの忠実な奉仕に人生を費やし始めました。「まっすぐな」人であるふりをせずに、その人が理解したクリスチャンの道徳的基準を厳密に守っていました。そして、神の御助けを得て、今でも信仰を堅持しています。

神は、思いやりがあって公正で、憐れみ深い方です。神は無知故の行為に対して誰にも責任を負わせません。また、使徒パウロも神の憐れみと思いやりを体験しました。

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テモテ 一 1:13
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

使徒パウロは過去に重大な罪を犯しました。彼は初期のクリスチャンの冒涜者であり、迫害者でした。それにもかかわらず、彼は神から慈悲を得ました。彼はそれらすべてのことを「無意識のうちに不信仰故」に行なったので彼は赦されました。

自分が内面で感じる性別に対応する性同一性を提供した医療手続きに身を委ねたトランスジェンダーの人は、神の御言葉を理解する前の間にその人がそれらの事をやってしまった事ならば、神の憐れみを得ることができます。神の教会の管轄外。その人も「無知故」で使徒パウロが赦されたような事と同じ方法でまだ赦されます。

その人が手術を受けた場合、その人は、医者がその人の肉体に行なった変更を元に戻すことはで出来ませんし、その人はそれから取り除かれたものを復元することもできません。しかし、それは使徒パウロのように、その人がそれらの事を「無意識のうちに不信仰故」したので、救済からその人を完全に失格とはされません。

現代の多くの宗教団体が、すべての事に責任がなく、罪がないかのように、そしてすべての人が性同一性の問題を抱えていないかのように、見せかけと偽善に満ちていることをどうしょうもないのです。例えば、偽牧師や詐称者は、同性愛者や同性愛者を組織で受け入れません。何故なら、その者たちによれば、第三の性に属する人々は神ではなく悪魔によって創造されたからだそうです。

そのような残酷な宣言は、神の御心についてのその者の無知さを示​​すだけです。聖書にはそれらの主張の根拠はありません。先に引用した節によると、神はすべての人が救われて真理の知識に来ることを望んでいるので、実際には、それは聖書の言う事と逆です。

聖書は、人の性別を問わず、主イエス・キリストの教えに身を委ねた瞬間、その人は新しい人になることを教えています。

その人は、神と主イエス・キリストの教えを学び、それらを受け入れた後に神の教会の管轄に身を委ねると、その人がこれまでやっていたことをやるべきではないことを理解しなければなりません。つまり、その人はもはや同性の関係に従事するべきではない、その人はもう化粧を身に着けるべきではない、その人は品のない装飾をすべきではなく、そして、その人はもはや世俗的な喜びでその人の人生を費やすべきではありません。その代わりに、その人は主イエス・キリストの教えに従って生活を始めるべきです。

キリストに属する人は、誰もが今や新しく造られた者として見なされます。

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コリント 二 5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

そんな人たちの過去は下記の通りです

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コリント 一 6:9
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

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コリント 一 6:10
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

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コリント 一 6:11
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

ですから、トランスジェンダーの人が現在キリストに属するなら、その人は自動的に新しく造られた者になります。その人は今やその人の目に見える明確な,な変化があるという意味で新しく造られた者であると考えられています。必ずしも、人の外見や性同一性ではなく、その人の生き方についてです。その人はもう酒を吸ったり飲んだりせず、バーやカジノに行くことも、乱暴に話す・行動することもありません。その人の生き方は現在、キリストの教えによって懲らしめられ、主イエス・キリストの人格に倣ってその人の全体が形作られているため、その人は更生しました。トランスジェンダーの人ではあるが、この「新しく造られた者」は神に受け入れてもらえられない、と言う者はあえて愚か者だけだろう。

神は、トランスジェンダーである人々やLGBTQコミュニティの他の残りの人々を含む、神に戻る人々全員を歓迎してくださいます。その場合、その人たちは神の教会でも歓迎されます。そこでその人たちは幸せでゲイのクリスチャンになることができます。

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人気なタガログ語の諺が聖書的な変身を得る

7月 19, 2020 0 Comments


人気なタガログ語の諺「Nasa Dios ang awa、nasa tao ang gawa」(慈悲は神にあり、行動は人にある)は、人間が神から慈悲を得る前には、まず働かなければならないことを意味します。

申し訳ありませんが、聖書の御言葉ではないので、その諺には完全には従いません。その代わりに、働くのは神であり、慈悲を与えるのも神であると私たちは信じるべきです。

まず第一に、あなたが働いているとき、あなたは慈悲に値しません。あなたは報酬または補償に値します。慈悲というのは、そのためにあなたが働かずとも得るものです。

神の慈悲を得るには、まず悔い改める必要があります。その後、神はその人の内で働かれるでしょう。働くのは神です。

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コリント 一 12:6
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

私たち人間はすべての善行を実行不可能ですが、私たち全員の中で働いているのは神です。

神は人の中で様々な働きをされます。人が心の中で善行をしたいという願望を感じ始めたら、それは神がその人の中で働いておられていることの証明、または現われです。

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フィリピ 2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

神は、人々が善行をしたいという願望を与えます。今日、多くの人がやりたいことは、自分のためになることだけです。他人のために善行をすることは、常に自然的に、または自然に人の心から湧き出る訳ではないので、他人のために善行をしたいという願望で心を神が満たして下さいます。

繰り返しますが、慈悲といのは私たちが働いたからではなく、悔い改めた時に神が私たちを赦し、受け入れてくださったからです。神は私たちの内で働いておられるので、私たちは心に善行をしたいという願いを感じます。そして、神は私たちに善行をするように勧めるだけではありません—私たちがやりたいと願っている善行を成し遂げるのを助けるでしょう。神無しでは何もできないからです。

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フィリピ 2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

ですから、働くのは人間だと言うのは聖書的ではありません。働くのは神であり、慈悲を与えるのも神です。人間は自分で何もできない。人間は神の御助けを必要としています。生命、力、資源、善を行う意志でさえ人間を支えているのは神です。実際、人間は一般的に、神の摂理に依存しています。

神は慈悲深い方です。実際には、仕える子にも慈悲深い普通の人間の父親よりも神は更にに慈悲深い方です。

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マラキ書 3:17
「彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

神が人間から求めておられている唯一のことは、人間が神の元へ戻り、神の条例を守ることです。

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マラキ書 3:7
あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。・・万軍の主は仰せられる。・・しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。

私たちは悔い改め、神の元に戻り、神の御言葉を受け入れる必要があります。私たちが神の御言葉を受け入れたとき、それから初めて、私たちが利益を得るためにすべきこと-(神様の慈悲の方ではなく)-神からの報酬のために取り組むことが出来るようになります。神の慈悲に値するように努力するのではなく、神の報いに値するように努力すべきであることを忘れないでください。

神が人間の中で働いておられてることのもう一つの現われは、人間が過去に犯した罪を悔やみ、悔い改めた時です。

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ローマ 2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

人間を悔い改めに導くのは神の良さと優雅さです。

また、あなたが犯した罪を悔い改めたと感じる時、それはまた、あなたが神無しでは無力であると知り、あなたが服従するために自分を差し出す宛てとなる「強力な存在」を認めていることを意味します。

私たちの誠実な悔い改めは、神の慈悲に値します。それは、私たちにとって非常に重要です。覚えておいてください、ニネベの人々は彼らの違反を心から悔い改めたので、神の慈悲に値しました。神は、ご自身が持って来るつもりだった災いからニネベの人々を救いました。

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ヨナ書 3:10
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

あの時までに、ニネベの人々は誤りへ導かれていました。彼らは、ソドムとゴモラの人々のように暴力と性犯罪に従事していました。

彼らに降りそうな差し迫った破滅について警告するために、彼らの元へ神が預言者ヨナを遣わされたのはそのためです。預言者の言葉を聞くと、ニネベの人々はすぐに悔い改めました。彼らは悪事から離れ、断食し、熱心に祈りました。

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ヨナ書 3:5
そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。

ソドムとゴモラの人々は非常に罪深い生活を続けました。それ故、彼らには硫黄と火が降り注いだのです。

しかし、彼らとは異なり、ニネベの人々は神を認め、悔い改め、邪悪から背を向けたので、神の罰から免れました。

私たちも神の慈悲に値するように、この世代の人々がニネベの人々がしたことをするように願っています。今日の世界を悩ます汎流行からも免れるためです。

働くのは神です。慈悲を与えるのも神です。そして、神の慈悲によって私たちは救われることが出来ます。

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キリストの来臨と裁きの日についての誤解に光を当てること

7月 12, 2020 0 Comments


現在のほとんどすべての宗教に共通していることが1つあるとすれば、「主イエスキリストが戻られた時、それは主のsecond coming(二度目の来臨)であり、その日は既に裁きの日になる。」と彼らは信じています。申し訳ありませんが、そうは思いません。

まず第一に、聖書には「second coming(二度目の来臨)」という言葉はありません。 「second coming(二度目の来臨)」への信念は、ラムサ氏の無謀で誤った聖書の翻訳の結果でした。実際、現在に利用可能な聖書の多数の翻訳のうち、ラムサ翻訳版だけが「second coming(二度目の来臨)」という用語を使用しました。他のすべての翻訳は使用しませんでした。残念なことに、ラムサ氏は多くの宗教に影響を与え、誤解を与えました。そのため、現在多くの人々が、キリストの地上への来臨が主のsecond coming(二度目の来臨)であると考えています。

主イエス・キリストが再び来ることは確かですが、それは主のsecond coming(二度目の来臨)でも、すぐに裁きの日になることでもありません。キリストは再び来られます。主が戻られた時、主は死者全員ではなく、主のうちにいた人たち、つまり主の教えを成就して死んだ人たちだけを蘇らされます。これは、第一の復活と呼ばれています。しかし、地上でのキリストの千年間の支配がまだ残っているため、それはまだ最後の裁きの日にはなりません。

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黙示録 20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

第一の死者の復活は、キリストが戻られた時に実現されます。第一の復活の一部となる人々は、神とキリストにあっての祭司になり、彼らは地上で主と共に千年の間支配します。

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コリント 一 15:24
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

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コリント 一 15:25
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

千年の間、キリストはすべての支配、すべての権威、すべての力を従わさせなければなりません。。主はすべての悪を打ち負かします。

千年の間の後に最後の裁きの日が来ます。キリストが裁きをなされます。

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コリント 二 5:10
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

私たちは主の来臨に備えなければなりません。祝福されたと見なされる人々の中にいるためには、主が来られたとき、私たちが御心を行なっていることを主に見られることが非常に重要です。

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マタイ 24:46
主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

主イエス・キリストが天国に昇られる前に、主は使徒たちに、すべての国々に主の戒めを教えるという特定な指示を残しました。

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マタイ 28:20
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

キリストは、私たちに主のすべての戒めを守ってほしいと望んでおられます。イエスが戻られた時に私たちが主の教えと戒めを満たしていることを見られたら、私たちは祝福された者と見なされます。

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黙示録 22:12
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

そうです。キリストは再び来られます。しかし、繰り返しになりますが、主は既に2回以上も地球に来られていましたので、主のsecond coming(二度目の来臨)にはなりません。例えば、イスラエル人たちが荒野にいた間、主は彼らを追っていて、岩の形で主はご自身を彼らに示しました。

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コリント 一 10:3
みな同じ御霊の食べ物を食べ、

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コリント 一 10:4
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

主イエス・キリストは、イスラエル人たちに続く岩であり、荒野にいる間に彼らに水を飲ませる岩でした。つまり、主が肉体で現れる前に、主は既に(岩の形で)地上に来ていました。

主が地上に来られたもう一つの例は、私たちを罪から贖うために人間の形を取っておられ、マリアが主を産んだ時でした。

なので、主が再び次に来られる時、それは主のsecond coming(二度目の来臨)ではありません。

実際、私が引用した例に加えて、キリストは既に何度も地球に降りては、天国に昇っていたのです。

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箴言 30:4
だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

私たち全員が知っているように、すべてのものは神と神の御子によって創造されました。そして、創造の間、キリストは地上に降りたり、天に昇られたりしました。ですから、キリストが次に再臨された時、それはキリストのsecond coming(二度目の来臨)ではないという意味です。

主イエス・キリストは再び来られます。それは間違いありません。しかし、それが主の3度目、4度目、または5度目の「来臨」かどうかについては、正確には分かりません。しかし、一つ確かなことは、それが主のsecond coming(二度目の来臨)でも、最後の裁きの日にもならないということです。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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愛することは、他人を安全に生きるようにさせること

7月 06, 2020 0 Comments


新型コロナウィルスの汎流行が人類に脅威を与え続けている今、全世界は全く無力です。専門家はこの疾患に適切な薬とワクチンを見つけることを目的とした臨床試験と研究の実施を決して止めませんが、世界の健康危機は少なくとも近い将来までにはまだに終わらないようです。

人間ができることには限界があるので、私たちが今必要としているのは神の介入であることは間違いありません。人間の制御に及ばないものがありますが、それらは神によって制御可能です。そして、人間の能力を超えているものがありますが、それらは全能の神によって簡単に処理できます。

数え切れないほどの機会に、神は信者と非信者の両方にご自身の全能さと御力を証明しました。例えば、モーセの時代には、多くの驚くべき神の行ないがエジプト人によって目撃されました。パロがイスラエル人を解放することを拒否したとき、神はパロの家臣を含むすべてのエジプト人の家庭を満たしたエジプトの国にアブの群れを送りました。パロはモーセに呼びかけ、アブたちを追い払うよう神に懇願するようにモーセに要求しました。モーセはパロがイスラエル人をすぐに解放するという条件に同意しました。

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出エジプト記 8:31
主はモーセの願ったとおりにされたので、あぶはパロとその家臣およびその民から離れた。一匹も残らなかった。

当時のエジプトの国がどれほど強力だったかを考えると、それでもアブの群れを追い払うことはできませんでした。しかし、モーセが神に祈ったとき、すべてのアブたちは追い払われ、アブは一匹も残されませんでした。

アブは神の創造物です。すべての生き物の創造者として、神はそれらのすべてを完全操作する御力を持っておられます。このように、アブたちだけではなく、パロがイスラエル人を解放するという自分の約束を破り続けたことでエジプトのすべての土地の上に上がったイナゴたちさえ追い払った。

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出エジプト記 10:19
すると、主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。

神からの単純な命令で、強力な西風が吹き、イナゴを追い払い、葦の海に追いやりました。

間違いなく、神の無限の御力によって、神は今の世界に蔓延するこの新型コロナウイルスに対しても同じことをすることができます。神はウィルスを追い払い、おそらく別の惑星に投げ込むこともできます。どうでしょう?すべてのウイルスは、神の御力に抵抗するには小さすぎます。

但し、私たちが最初に、私たちの違反に対する真の悔い改めと、神の教えを受け入れ、守る意欲を神に示しましょう。そして、神は私たちの誠実さを見て、確実に私たちに憐れみをお与え、私たちをこの疫病から救って下さいます。。

悪病と疫病は人間の罪深さの結果として起こります。だからこそ、私たちの誠実な悔い改めは、この疫病を終わらせる上で神が考慮すべき要因となり得るのです。ニネベの人々がしたことだけを倣えば、疑いもなく、彼らがしたように私たちも神の憐れみに値するでしょう。

彼らが預言者ヨナから神が彼らを滅ぼすことを知ったとき、ニネベの人々は時間を無駄にしませんでした—彼らは彼らの不正を悔い改め、断食し、彼らの邪悪な道を背き、熱心に神に祈りました。神がニネベの人々がしたことを王から市民の最も低い人までを見たとき、神は彼らに降りかかるはずの破壊を差し控えたのです。それで、ニネベ全体が救われました。

これが、私が絶え間なく祈るように皆に常に訴えかけている理由です。神が最強であるため、神の憐れみを呼び起こしてみましょう。神だけがこの汎流行から私たちを救うことができます。神だけが、致命的なコロナウイルスを追い払い、根絶する御力さえ持っています。

現在、死者の数は依然として数千人にのぼり、新型コロナウィルスで亡くなった人々が適切な埋葬を受けられなくなった場所もあります。

実際、そのようなことが起こったのはこれが初めてではありません。聖書でさえ、死亡後にもはや埋葬されなくなった人々がいて、彼らの愛する人は彼らの死を嘆き悲しむ機会が与えられなかったと述べています。

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エレミヤ書 25:32
万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。

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エレミヤ書 25:33
その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。』」

人類は、以前の疫病の間、具体的にはスペインのインフルエンザと腺ペストの襲撃中に、伝統的な葬儀や埋葬式を行わずに死者全員を集団墓地に葬ったときに、これらを既に経験していました。同様に、家族は亡くなった愛する人たちを嘆き悲しむ機会を与えられませんでした。そして、私たちの世代にも同じことが起こる可能性が非常に高いのです。

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コヘレトの言葉 3:15
今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。

過去に起こったことは再び起こります—過去に起こった善悪が人々に再び起こる可能性があります。それはすべて、私たちの創造主に対する態度と私たちが神をどのように考えているかにかかっています。私たちが熱心で神に反抗していると、悪いことが繰り返されます。しかし、私たちが神の元に戻って、私たちの真の悔い改めと神に従いたいという願いを神に示したなら、良いことが繰り返されます。

今の世界は、新型コロナウィルスと戦うことができるワクチンを見つけることに絶望的であることがわかります。しかし、まだ何も見つからない間に私たちにできる最善のことは、宗教を除けば、政府によって課された健康手順を遵守し、祈ることです。つまり、私たちのこの存在物語の非常に困難な章を克服できるよう、神の御心でこの汎流行を生き抜くことができるように祈りましょう。しかし、神の御心がそうでなければ、私たちの人生は神の御手にかかっているので、私たちは心からそれを受け入れるべきです。その上、全能の神はご自身のしもべたちのために何が良いかを知っておられますから。。

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ローマ 8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神は、神を愛する人のためにすべてのものを変えることができます。神を愛することは神の戒めに従うことであり、その一つは同胞を愛することです。

多くの国では、新型コロナウィルスで亡くなったすべての人を火葬することを義務付けています。おそらく、亡くなった愛する人を火葬することを誰もが望んでいるわけではありませんが、それでも伝染を止めるのを助かるための一つの方法であるので、人々は健康専門家の指示に屈する必要があります。人々が「それぞれの伝統的な埋葬の儀式を遵守せよ」主張するならば、死者を弔う人々とそれぞれの家族であろうすべての人々が感染するという大きな可能性があるからです。

実際、火葬や死体の焼却は、旧約聖書の時代に遡ります。しかし、それは別の状況の下で行なわれました。今日、新型コロナウィルスの犠牲者は、イスラエル人の時代にウイルスがより多くの人々に感染するのを防ぐために火葬されました。生きたまま火で焼かれる者たちは、卑劣な行為または邪悪な行為を犯した人々に対する神の罰でした。

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レビ記 20:14
人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。彼も彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。

配偶者とその子の両方を娶る人は、神にとっては忌まわしいです。したがって、その三人は火で焼かれる死刑で処されます。

この種の罰を与えることは、神がイスラエルの人々に忌まわしい行動を取ることを抑止し、彼らが神を恐れるようにするための方法でした。

しかし、すべての死者が火で焼かれて死んだ訳ではありません。アサ王にしたように死者の遺体が埋葬された事例もあった。

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歴代誌下 16:12
それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

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歴代誌下 16:14
そこで、人々は、彼が自分のためにダビデの町に掘っておいた墓に彼を葬り、香料の混合法にしたがって作ったかおりの高い香油や香料に満ちたふしどに彼を横たえた。そして、彼のために非常にたくさんの香をたいた。

主イエス・キリストが復活させたラザロも墓に葬られました。

現在の状況では、新型コロナウィルスが原因で亡くなった人々の火葬は、論理的で高貴なことのようです。あなたが他の人の福祉を気にかけ、本当に彼らを愛しているなら、あなたは多くの人の安全のために個人的な感情を犠牲にするでしょう。

それには聖書の根拠があります。

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コリント 一 13:3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

同胞への愛情により、他人に感染させたくないために死体を火葬にさせる場合、あなたは非常に英雄的なことをしています。それは実際、愛情の仕草です。

自分たちの信仰と原論に堪えたことで生きたまま火に焼かれる死刑で死亡した人々もいました。彼らがカトリック信仰を受け入れることを拒否したために火に焼かれる死刑30万人、主にクリスチャンたちに起こったことのように。

実際、教える皇ヨハネ・パウロ2世が死ぬ前に、彼は、カトリック教会がそれらの人々に対して犯した残酷さについての赦しを懇願しました。 Foreign Post, March 16-20, 2000; Volume 8, No. 370. (2000年3月16日〜20日、外国郵便。第8巻、370号)に掲載されました。


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:画像の英文の日本語訳:
私たちをお赦してください。バチカン市—ローマ教皇教会の歴史において前例の無かった公の告白の中で、聖ピーター大聖堂の十字架像の前で悔い改めて抱擁した教皇ヨハネ・パウロ2世は、過去2000年間にわたる教会の罪に対すの赦しを日曜日に求めました。教皇は、特に十字軍と異端審問で火に焼かれる死刑にされた30万人に言及しました。

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カトリック教会に反対した人々、偽りの神々や偶像を崇拝したくない人々は異端者と見なされました。したがって、彼らは「聖なる異端審問」と呼ばれるものによって危機に瀕して焼かれました。

ですが、「死体」の火葬自体には特に問題はありません。特に、生きてる他人への愛情のために死体を火葬している場合はそうです。死の際になってもなお、愛情故に同胞のために何かをすることができました。そして、あなたは彼らを愛しているから、彼らに感染してほしくない。

他人への愛の重要性をさらに強調するために、コリント一13:3 もう一度引用させてください

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コリント 一 13:3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

あなたが愛情を持っていれば、他人が安全に生きるようにさせます。

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