カトリック聖書の73冊の本についての明白で単純な真実


聖書には、書かれたものをあえて追加したり差し引いたりする人々に対して強い言葉と厳しい警告・・・

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黙示録 22:18
私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。

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黙示録 22:19
また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

というのがありますが・・・

カトリック教会は聖書にまだ言葉、段落、章だけではなく、書を足しました。 それも、1冊ではなく、2冊ではなく、7冊の書。

ほとんどの人が知っているように、King James版, Revised Standard版, and the American Standard版など、より評判の良い翻訳版の聖書とされているそれらは、66冊の書で構成されており、そのうち39冊は旧約聖書(創世記 から マナキの書)が含まれていますが、他の27冊は新約聖書(マタイの書 から 黙示録)が含まれています。

驚いたことに、カトリック教会の現代口語訳聖書は73冊の書で構成されています。オリジナルの66冊の書に追加されたのは、Tobit, Judith, 1 Maccabees, 2 Maccabees, Wisdom of Solomon, Sirach, and Baruchの7冊分の書です。

どうしてそうなった?まず、神が聖書を書く際に使用された記者たちはヘブライ人であったことを理解する必要があります。ですから、聖書が書かれた元の言語がヘブライ語であり、それがヘブライ人のために書かれたんだと信じることは賢明で論理的です。

歴史的な記録によると、4世紀頃にJerome氏は、旧約聖書のVulgate訳を依頼されました。つまり、彼はヘブライ語から(聖書が書かれた元の言語)から、それをラテン語に翻訳しました。そして、Jerome氏がVulgate訳の翻訳に取り組んでいる間、彼は旧約聖書の書の実際の編集から、7冊の書を分離しました。

これはカトリック教会のGood News Bibleの序文が言っていることです:

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:翻訳:

Good News Bible (カトリック教の現代口語訳聖書)

キリスト教徒の間で、これらの本の正統性の問題が生じたのは明らかに4世紀でした。これは、Jerome氏が旧約聖書のVulgate訳の章・節分別に、これらの書を設置したことに反映されています。
1546年、トレント公会議で、ローマカトリック教会はこれらの本が神聖で正統であり、「平等な献身と敬意をもって」受け入れられることを公式に宣言しました。

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Good News Bibleの序文によると、1546年、聖書が完成してから、または使徒と伝道者によって書かれた書が「聖書」にまとめられてから、1500年以上後、カトリック教会がJerome氏によって分離された7冊の書は神聖で正統であり、平等な献身と敬意をもって受け入れられるに値するという宣言でやって来ました。

これは、トレント公会議での宣言の前に、それらの書がカトリック教会によって受け入れられていなく、崇拝されておらず、その指導者がそれらの7冊の書が本物で神の霊感を受けているかどうか確信が持てなかったという印象を与えます。そうでなければ、彼らは、1546年以前でさえ彼らを受け入れて崇拝すべきだったのですから。

私たちの側では、これらの7冊の書は旧約聖書の本来の部分ではないので、神の霊感を受けておらず、規範的でもないと確信しています。そして、私たちはそう信じる正当で具体的な理由があります。

まず第一に、旧約聖書の書は、使徒たちやマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、パウロなどの伝道者によって頻繁に引用されました。彼らが、新約聖書でそれぞれの書を書いたとき、彼らは旧約聖書の本を引用しました。

実際、主イエス・キリストご自身でさえ、主が説教したときに、旧約聖書の書を数回引用しました。ある例では、

主は「初めに神は男と女とに彼らを創造されたと、あなたは読んでいませんか?」と言いました。

主は創世記に言及していました。そして、律法学者やパリサイ人が言ったり、行なったりしていることに不適合を表明しているときはいつでも、主はいつも「あなたは読んでいませんか...?」と言いました。または「それは書かれています...」と。主はもちろん、旧約聖書の書物を参照していました。

たとえば、マタイ21:15-~21:6には、次のように書かれています。

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マタイ 21:15
ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろいろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言って叫んでいるのを見て腹を立てた。

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マタイ 21:16
そしてイエスに言った。「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

神殿の子どもたちが「ダビデの子にホサナ!」と叫んでいたとき。律法学者とパリサイ人は騒がしかったのでイライラしていました。彼らは、子どもたちが叫ぶのを防ぎたかったのですが、主イエス・キリストは彼らにこう言われました。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された。』と。主は旧約聖書の経典に言及していました。

主イエス・キリストは、律法学者やパリサイ人に何かを教えたいと思う度に、旧約聖書の書物を常に引用することを強調しました。何故なのか?キリストの時代、律法学者とパリサイ人は、律法を熟知していたので、高学歴だという評判がありました。モーセの律法に関しては、彼らはよく教えられていました。

パリサイ人がモーセの律法の擁護者である間、筆記者はモーセの律法を書きました。ですから、キリストが彼らに答えるとき、あるいは彼らの言葉に異議を唱えたり訂正したりするときはいつでも、主はいつも旧約聖書の書を彼らに引用していました。それは彼らに、彼ら自身の薬の投与量を彼ら自身に与えるようなものでした。

しかし、非常に注目に値するのは、主イエス・キリストが説教している間ずっと、Judithの書Maccabeesの書など、またはカトリック教会が1546年に聖書に追加した7冊の書のいずれも一度も引用しなかったことです。

使徒たちが説教したとき、そして、彼らがそれぞれの書や手紙を書いたときも、カトリック教会が追加したあの7冊の書について言及することはありませんでした。Tobit, SirachとBaruch、または7冊の書のいずれも、旧約聖書の一部ではなく、正規ではなかったため、引用されていませんでした。もし、それらが正式であったのなら、確かにキリスト、使徒たち、そして伝道者たちはそれらを引用したに違いありません。一方で、彼らは、詩篇、ヨブ、創世記、預言者などの旧約聖書の合法的な書を数多く引用しました。これらの書は、実際に聖書と使徒たちの不可欠な部分であり、伝道者はそれらを認めました。

追加された書が標準的ではないというもう一つの証拠は、カトリック教会がそれらの書を、それらの参照または基礎として使用した教義を持っていないという事実です。

司祭とカトリック教会の指導者たちは、バプテスマが支払われなければならないことを証明するためにMaccabeesの書またはJudithの書を引用していますか?彼らは、繰り返し祈ったり、ロザリオを祈ったりする習慣を擁護し正当化するために、それらの書を引用していますか?彼らは、彼らのいわゆる7つの秘跡への彼らの信念を守るためにそれらを引用していますか?あったことないですね!彼らは、彼らの信仰を守るためにそれらを使用しません。

真実は、彼らは、彼らの大衆や他の教会の儀式でそれらの書を読んでさえいないということです。それらの書が本物で神の霊感を受けているのなら、何故にそれらを使わないのですか?それは、彼ら自身がそれらの書の完全性を疑っているということを証明するだけです。簡潔で単純ですね。

神が私たち全員を祝福してくださいますように!

人々を惑わす説教師らに対し、聖書は警告をする


すべての説教者が聖書の理解を持っているわけではないのは事実です。彼らの多くは、ただ神に属するフリをしています。実際、彼らが聖書を知らないことは非常に明白であるだけでなく、彼ら自身が理解していないことを彼らが説いているので、あなたは、彼らを簡単に認識することができます。

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テモテ 一 1:7
律法の教師でありたいと望みながら、自分の言っていることも、また強く主張していることについても理解していません。

彼らは、Manalo氏のIglesia ni Cristo(略 INCM)の牧師のように、聖書を理解していないという事実にもかかわらず、律法の説教者または、教師になりたいと望んでいます。 INCMの公式出版物であるPasugoに掲載された記事の一部を引用させていただきます。マナロ自身を含む,彼らの大臣らは聖書を理解しておらず、彼らが何について話しているのかわからない、ということをお見せします。



:翻訳:
[ローマ人への手紙第16章16節には、「すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。」 「Iglesia ni Cristo」は正式名であり、すべての人が(お互いに)挨拶する際で使用するように命じられている挨拶である。人種や場所の名前ではなく、個人の特性に関係するものでもありませんが、すべてを指します。状態、または状況も指します。]

この記事は、INCMがローマ人への手紙16:16をひどく誤解し、誤った説明方法していることを証明しています。

非常に明白に、この聖句はキョウダイたちに聖なる口づけでお互いに挨拶するように命じています。教会のキョウダイたちが互いに挨拶し合うのは、「聖なる口づけ」です。しかし、INCMの解釈では、彼らがお互いに敬礼したり、挨拶したりするのは、彼らの教会名である「Iglesia ni Cristo」です。馬鹿馬鹿しい!ナンセンスですね。

使徒たちが書いた手紙を考えてみると、コリントの兄弟たちのように、教会のキョウダイたちには、聖なる口づけでお互いに挨拶するようにとの訓戒が与えられました。

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コリント 一 16:20
すべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。

実際、ローマとコリントのキョウダイたちだけが、聖なる口づけでお互いに挨拶するように命じられただけではありません。ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤのキョウダイたちも、使徒ペテロから同じ指示を受けました。

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ペトロ 一 1:1
イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、

それらの場所のキョウダイたちは、厳しい迫害を経験したので散らばっていました。そこで使徒ペテロは彼らに手紙を送り、彼は慈善の口づけ、または聖なる口づけでお互いに挨拶するように言いました。

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ペトロ 一 5:14
愛の口づけをもって互いにあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがたすべての者に、平安がありますように。

テサロニケ人も使徒パウロから同様の指示を受けました。

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テサロニケ 一 5:26
すべての兄弟たちに、聖なる口づけをもってあいさつをなさい。

INCMだけが、聖なる口づけではなく、「Iglesia ni Cristo」という名でキョウダイたちに敬礼するのは奇妙なことです。彼らが聖書を理解していないことの明確な証拠です。

「聖なる口づけ」はどうなのでしょうか?彼らの大臣によると、INCMの聖なる口づけの解釈は何ですか?



ローマ人への手紙第16章16節で言及されている「聖なる口づけ」の独自の解釈を思い付く代わりに、INCMの大臣はウィクリフ聖書注解書 ( Wycliffe Bible Commentary )で提供された注解に言及しました。明らかに、彼らは彼ら自身の注解を持っていません、それは、彼らが「他の誰か」の注解を使用した理由です。

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ウィクリフ聖書注解書 ( Wycliffe Bible Commentary ) より「聖なる口づけ」に関する注解

:原文:
[Whatever in modern culture is symbolic of the deep affection which Christians ought to feel toward each other — a kiss on the cheek, a warm handshake, a grasping of both hands, and others — this is the equivalent of the apostolic command.]

:翻訳:
現代文化の何であれ、クリスチャンたちがお互いに対して感じるべき深い愛情の象徴です(頬にキスをする、温かい握手、両手を握るなど)これは使徒の命令に相当します。
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彼らによると、彼らがプロテスタントの本に基づいている「聖なる口づけ」についての彼らの立場は、それが人に挨拶する方法であるということです。そして、その現在の同等物は、「(タガログ語)beso-beso」頬への口づけ、または握手です。彼らはまた、これが彼らの教会での彼らの兄弟姉妹が実践していることであることを認めました。

しかし、「Iglesia ni Cristo」という名は、キョウダイたちがお互いに挨拶するための挨拶である、という議論に続いて、私の疑問は、握手するとき、または彼らがbeso-besoをするとき、またはお互いに口づけするときです。彼らは「Iglesia ni Cristo」という名を言いながら、お互いに挨拶をするのでしょうか?もちろん、しないでしょうよ!彼らは、そうすることで「自分らが馬鹿みたい」に見えることを心の中で知っているからです。

これは、INCMの説教者らが、彼らの好きな聖句であるローマ16:16さえも理解していなく、彼ら自身が理解していないことについて、彼らが話していることを示しているだけです。

繰り返しますが、神から来ている説教者や牧師だけに神様が悟りを与えて下さいます。そのような者は、説教するために神から遣わされました。

ローマ 10:15によれば、

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ローマ 10:15
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

聖書を理解していない説教者は神から遣わされません。

実際、フィリピンのミンダナオ地方には、自分は神の子であり、すべての人の魂を所有していると主張する別の誇り高ぶってる説教者がいます。 INCMの牧師のように、この男も自分が何について話しているのかわからず、口から出てくる言葉は聖書の言葉と一致していません。

彼が人々のすべての魂を所有していると言う勇気を彼に与えたのは何でしょう?聖書的に言えば、人々の魂はすべて神によって所有されており、彼のような普通の人間によって所有されているのではありません。

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エゼキエル書 18:4
見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。

私のすべての人々への呼び掛けは、この種の説教者に騙されないようにして下さい。それらは、神から遣わされた者ではありません。彼らは、あなたを滅びに導くだけです。

神が私たち全員を導き、祝福してくださいますように!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

聖書を読む時は、導かれましょう


普通の聖書の読者は聖書を理解するのに苦労しています。特に、自分を導くための理解の才能を持っている他の人がいないと、そうです。これは、普通に起こるので落胆するべきではありません。聖書を読むには、神からの理解の賜物を受け取った人の導きが必要であることを理解する必要があります。

使徒言行録は、ピリポが助けに来たことで、聖書を理解することができたエチオピアからのある宦官について説明しています。エチオピア人の女王であるカンダケのすべての宝物を担当していた宦官は、たまたま偉大な権威のある人であり、信仰の人でもあったが、神を崇拝するためにエルサレムにやって来たと言えます。

家に帰る途中、預言者イザヤの本を読んでいました。そして、読んでいる間、彼は自分が理解していない部分に遭遇しました。その時、聖霊はピリポを彼の馬車にて宦官を導くように指示しました。

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使徒 8:30
そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。

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使徒 8:31
すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。

ピリポが来て、彼がイザヤ書を読んでいるのを聞いたとき、彼はエチオピア人に「自分が読んでいることを理解しているかどうか」を尋ねました。ピリポに彼は答えました、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」。最終的に、彼はピリポに、彼の馬車にて一緒に座るように要求しました。

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使徒 8:32
彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。

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使徒 8:33
彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」

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使徒 8:34
宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」

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使徒 8:35
ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。

宦官はピリポに、預言者が言及している「彼」は誰であるかを尋ねました。「彼」とは、ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のことを言っていました。

ピリポは、小羊は主イエス・キリストの象徴であると彼に言いました。そして彼らが旅をしている間、彼は宦官に主イエス・キリストを説教し続けました。私たちが知っているように、この出来事は、ピリポが宦官に説教したすべてを宦官が理解し、心から受け入れたので、宦官がバプテスマを受けることに至りました。

私が打ち込もうとしているのは、神から来た「知恵を持った人」、つまり、ピリポが彼にすべてを説明したので、宦官の聖書への理解が可能になったということです。

言い換えれば、すべての人が神から理解の賜物を受け取ったわけではないので、すべての人が聖書を理解できるわけではありません。

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マタイ 19:11
しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。

神の御言葉を理解することは、神から来ます。それは、神によって与えられます。その結果、人は神から悟りの賜物を与えられない限り、聖書に書かれている神のお言葉を理解することはできません。

既に述べたように、すべての人にこの賜物が与えられるわけではありません。神からの説教者だけです。ですから、あなたが説教者でないなら、あなたが理解するのが難しいと思う聖書の部分があるようになるでしょう。

しかし、あなたが説教者であるならば、それは別の話です。説教者は聖書の中の神の御言葉を完全に理解していることが期待されています。もし、説教師と名乗る者が神からの賜物を受け取らなかったら、その人の恥です。その場合、その人は説教する権利がありません。

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コヘレトの言葉 12:10
伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。

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コヘレトの言葉 12:11
知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。

神の御言葉への理解は、最初に神の牧師または説教者に与えられます。そして、この説教者または牧師は、次に、人々が神の御言葉を理解するように彼らを導き、会衆に教えます。

このようにして、聖書を理解するのが難しい人は、神が理解を与えてくださった説教者の助けを借りて、神の御言葉を理解し、悟ることができるようになります。

あなたの救済が妥協されないように、神から送られた説教者、神から理解を与えられた説教者だけに耳を傾けるようにしてください。

神のご加護がありますように!

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聖書は、夢幻について何を語るのか


年齢、性別、社会的地位に関係なく、すべての人は眠るときに夢を体験します。

人に来る夢は変わるかもしれません。それらは、面白く、悲しく、奇妙な、恐ろしく、または神秘的なものである可能性があります。または、他の誰かについて、あるいはおそらく信じられないほどの何かについてでさえありえます。

必然的に、夢想家は自分が見た夢に影響を受けたり、当惑したりすることがあります。したがって、人が経験する夢が何らかの意味と重要性を持っているかどうかを調べることが重要です。

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コヘレトの言葉 5:3
仕事が多いと夢を見る。ことばが多いと愚かな者の声となる。

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コヘレトの言葉 5:7
夢が多くなると、むなしいことばも多くなる。ただ、神を恐れよ。

どうやら、すべての夢が重要であるわけではありません。時々、夢は人に思い浮かびます。なぜなら、人の心は、人生における自分の願望、欲望、その他の懸念は言うまでもなく、非常に多くの問題や心配事について考えるのに忙しく、眠る時までさえ、自分の心はまだそれらのものに夢中になっています。この人に訪れる夢は通常、意味も関連性もないので、自分の考えからすぐに却下されるべきです。

夢は眠っている人に非常に頻繁に来るかもしれません。これに関連して科学が発見したことは、聖書が「夢が多くなる」と述べたものと一致しています。研究者たちは、深い睡眠にある人が30分ごとに夢を見ていることを知りました。残念ながら、その人たちが目を覚ましたとき、それらの夢のすべてが記憶されているわけではありませんでした。

人間は眠っている間に何回を夢を見るのでしょうか。

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How many times does a human dream while sleeping?
Source: answers.com

Everyone dreams while they are sleeping but not everybody remembers it, so if people tell you they don’t have dreams, they are lying, or mistaken. Yes, but not everyone remembers them when they wake up.

Humans dream every ½ hour and seldom remember most of them and that’s because they are in total REM sleep (meaning a deep sleep with eyes moving back and forth under closed eyelids.)

When a person is stressed out they are not in total REM sleep (tossing/turning) and it’s the last few seconds just before waking up that an individual can remember a dream or nightmare. Nightmares are caused from stress. If a human didn’t dream they actually would go crazy. Dreaming releases tension in the body and mind.

ソース: answers.com

:翻訳:

誰もが寝ている間に夢を見ますが、全員がそれらを覚えているわけではないので、夢がないと言えば、嘘をつくことになり、間違うことになります。しかし、目覚めたときに全員がそれらを覚えているわけではありません。

人間は30分ごとに夢を見ますが、ほとんどを覚えている人はめったにいません。これは、完全なレム睡眠(まぶたを閉じた状態で目を前後に動かす深い睡眠を意味する)であるためです。

人がストレスを感じているとき、完全なレム睡眠(振る/回す)ではなく、目覚める直前の最後の数秒で、個人は夢や悪夢を思い出すことができます。悪夢はストレスから引き起こされます。人間が夢を見ることがなかったら、狂ってしまいます。夢は体と心の緊張を解き放つからである。

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人々が経験する夢の多くは重要ではないことは事実ですが、それらはおもにストレスや緊張、その他の人生へのこだわりから生まれているため、注意で支払われるに値する夢があることも聖書の真実です。それらは神によって送られたからである。

神は、人々に予言的な宣言を与えるために、ご自身の民に夢を送ります。ヤコブの息子であるヨセフが若い頃に見た夢のように。彼の夢は、いつか彼が自分の兄弟たちを支配すること、そして、彼の父と母でさえ、彼に身をかがめることを意味しました。

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創世記 37:7
見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」

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創世記 37:8
兄たちは彼に言った。「おまえは私たちを治める王になろうとするのか。私たちを支配しようとでも言うのか。」こうして彼らは、夢のことや、ことばのことで、彼をますます憎むようになった。

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創世記 37:9
ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」と言った。

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創世記 37:10
ヨセフが父や兄たちに話したとき、父は彼をしかって言った。「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」

確かに彼は統治をし、家族を支配する時が本当に訪れたのことで実現されました。

もう一つは、マリヤの夫である別のヨセフを訪ねた夢です。彼は彼女とまだまだ一緒に寝ていなかったにもかかわらず、マリヤがすでに子どもを身ごもったことを知って頭が悩んでいた時でした。

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マタイ 1:18
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。

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マタイ 1:19
夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

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マタイ 1:20
彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ヨセフは、マリヤが不倫をしたと思ったので、彼は彼女と別れることを考えていました。そして、彼は彼女を公に恥じさせたくなかったので、密かにそれを実行することを計画していました。

しかし、その夜、主の御使いが夢の中で彼を訪ね、彼が計画していたことを追求しないように彼に言いました。彼はマリヤの概念は聖霊のものであり、他の人によるものではないと彼に説明しました。ヨセフの夢は、マリヤを誤解しないように、そして、彼が間違った決定を下さないように、彼への導きとして役立ちました。

聖書から取られた与えられた状況に基づいて、将来起こることについて人々に警告し、彼らの行動の過程で彼らを導くために、そしてまた彼らの行動の過程で彼らに警告するために神によって彼の民に送られた夢があることがわかります。差し迫った悲劇から彼らを救うために。

教会にはとある兄弟がいました。フィリピン国内で日本軍の占領中に駐屯地に投獄されたBro. Nazario S. Regaladoです。しかし、日本の強制収容所の中にいる間、彼は正気を失いました。

そして、彼が彼の独房で彼の執筆としてとして自分の糞便を使って壁に書くことのような狂ったことをし始めたとき、日本兵は彼をマンダルヨンの精神保健施設に送ることに決めました。

彼が精神保健施設に連れて行かれた数日後、アメリカ人はその特定の日本の駐屯地が位置していた地域で空襲をしました。その結果、強制収容所全体が全滅し、そこのどの生き物は誰も生き残れませんでした。

そこにいたすべての人にとって悲劇的な出来事でしたが、それでも、それは信仰を持ったキョウダイたちの救いを意味しました。

しかし、Brother Ariong (彼のあだ名)が捕虜になる前に、彼の母親は彼が牛になることを夢見ていました。聖書的に言えば、牛は説教者の象徴です。したがって、彼女の夢は、彼女の息子がいつか説教者になることを意味しました。しかし、息子が日本の駐屯地に拘留され、拘禁中に正気を失った場合、どうすればそれが可能になるのか理解できませんでした。

やがて彼らは、Brother Ariong に起こったことすべてが、母親が彼について見た夢の実現につながったことを理解するようになりました。彼の一時的な狂気は起こらなければならず、彼は空襲中に死ぬ人々の中に含まれないように精神病院に送らなければなりませんでした。彼の命は救われ、彼が連れてこられた精神保健施設は彼の避難所として役立った。

しばらくすると、彼は元気になり、通常の生活に戻ることができました。実際、彼はBulacanの大学で教員にさえなりました。何よりも、彼は教会の奉仕者、または説教者になりました–彼の母親が持っていた夢の実現されました。そして、それだけではありません。

私が教会全体の奉仕者になったとき、Brother Nazarioが書記長兼会計になりました。間違いなく、Brother Ariongの母親が見た夢は、神から彼女に送られたものでした。

神から、神の民に送られる夢はありますが、すべての夢が神から来るわけではないことを繰り返し述べておきます。それらのいくつかは神の敵から来ており、いくつかは人間の先入観とこの世界の問題や他の世話の考えすぎの結果です。

しかし、邪魔な夢に見舞われることを避けるために、寝る前に神に短い祈りを捧げることが常に最善です。

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キリストの花嫁のいくつかの特性


今日、多くの説教者、特にボーン・アゲイン団体の会員たちに教えていないことの1つは、クリスチャンが主イエス・キリストと持つ可能性のある、様々な種類と度の関係があるという事実です。

まず、クリスチャンと主イエス・キリストの間には、主と従者の関係があります。キリストは私たちの主、または主人でおられ、私たちクリスチャンは主のしもべです。

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ヨハネ 13:16
まことに、まことに、あなたがたに告げます。しもべはその主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません。

遣わされた者は、主、または主人よりも偉くはありません。そういうわけで、従者は疑いなく自分の主からのすべての命令に従うことが期待されています。キリストのしもべとして、私たちは主の権威に服従し、主に最大限の従順を与えなければなりません。

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ルカ 9:23
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

私たちはまた、自分自身を優先しないで、私たちの仕事と義務を果たすことに伴うすべての困難に耐える準備ができていなければなりません。私たちの主な義務は、私たちが望むことをすることではなく、主が私たちに望んでおられていることを実施することです。そして、私たちが忠実で従順なしもべであることが証明されると、キリストとの関係はより高い層へ進むことができます。

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ヨハネ 15:15
わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。

使徒たちや初期のクリスチャンたちが経験したように、主は私たちをもはや、しもべではなく、主の友と見なしてもらえるかもしれません。キリストが、もはや彼らをしもべとしてではなく、友として扱った時が訪れていました。そして、これは私たちにも起こる可能性があります。主と従者の関係は、最終的には友情に変わる可能性があります。これは、より高く、より良い種類の関係です。

主イエス・キリストは、友であるだけでなく、クリスチャンの兄になることもできます。

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ローマ 8:29
なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

多くのキョウダイの中で長子として、主をクリスチャンたちの兄として見なすことができます。

それでもなお、私たちが言及したものよりもはるかに大きく、はるかに深い別の種類の関係があります。―私たちは、主の婚約者になることができます。

私たちクリスチャンは皆、自分たちがキリストと結婚することに従事していると考えることができます。私たちは、主の婚約者です。主は、私たちの婚約者です。これは私たちが守り、大切にする必要のある関係です。

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コリント 二 11:2
というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

現在、教会は新しいエルサレムで行われる結婚式の準備を進めています。

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黙示録 19:7
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

クリスチャンたちは、キリストの花嫁となる者として、清純な処女のように花婿である主イエス・キリストに差し出されなければならないので、これは細心の注意を払う準備になるでしょう。

そんなことがあるものでしょうか?

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エフェソ 5:26
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

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エフェソ 5:27
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

結婚式の日はまだ来ていませんが、教会は清められ、聖化されています。つまり、教会のキョウダイたちには、キリストの教義と、クリスチャンとしての正しい生き方と行動の仕方を絶えず教えられています。そして、この浄化と聖化の過程は、バプテスマから始まります。聖なるバプテスマを受け入れた後、私たちは新しい人生を送り始めることが望まれます。それは、主イエス・キリストの律法と教えに従って生きる一種の人生です。

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ローマ 6:4
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

私たちは以前のようになることをやめます。私たちがかつての悪行者だった場合、私たちは悪事をやめます。もし私たちが悪徳にふけっていたのなら、私たちはそれらを私たちの筋道から直ぐに取り除くべきことです。そして、私たちが自分の家族の人たちに対してさえ、思いやりがなく、利己的で、無礼であったならば、今、私たちは無私無欲、思いやり、寛大さ、そして、愛の美徳を育む必要があります。

この浄化と聖化の過程は、クリスチャンたちがキリストとのより緊密な関係を築く準備をします。そして、それは主と一心同体になることです。私たちは主と一体になります。

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エフェソ 5:30
私たちはキリストのからだの部分だからです。

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エフェソ 5:31
「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」

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エフェソ 5:32
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

アダムとエバが夫と妻になったときと同じように、私たちがキリストと一つになるようになるでしょう。しかし、肉体的な結合を持っていたアダムとエバとは異なり、教会とキリストは精神の結合を持っています。

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コリント 一 6:17
しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。

キリストと交わりを持つ人々は、霊的に、肉体的に、そして、すべてにおいて、キリストと一つです。

しかし、天国でのその結合を待っている間、私たちクリスチャンは、私たちが染みがなく、しわがなく、神聖で、傷がなくなるまで、私たちは私たちの浄化と聖化に取り組み続けなければなりません。 —これらは、キリストが結婚する花嫁(教会)のいくつもの特性です。—

キリストとの「個人的な関係」?ご容赦を。それは、まがい物だ!



使徒パウロがガラテヤ人への手紙第1章10~11節で書いたことは、私が説教を始めてから今まで私が従った指導原則でした。

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ガラテヤ 1:10
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

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ガラテヤ 1:11
兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。

使徒パウロが説教した福音は人を追いかけたものではなかったので、人を喜ばせるためのものではなかったと思います。人々を喜ばせ、彼らの承認を得ることは、説教するときはいつでもパウロの主な関心事にはなりませんでした。キリストのしもべとして、彼は福音をできるだけ忠実に説教するという、彼の任務を遂行することにもっと関心を持っていました。

そして、それはまさに私が神の御助けを借りてやろうとしていることです。私の発言は喜ばしくもなく、他の人の耳にも甘く聞こえないかもしれませんが、私が言っていることはすべて、聖書に書かれている主イエス・キリストの教えに基づいていることは確かです。

確かに、主イエス・キリストの教えは、人を喜ばせることを目的としていません。実際、それらはどういうわけか、人間の考え方、生き方、そして原則とは対照的です。

しかし、使徒パウロのように、私の言質は人々を喜ばせることではなく、福音を告げたり、主イエスの教え、またその一部に反する他の宗教の信念や実践を明らかにするなど、私の主、キリストを喜ばせることをすることです。

その一例は、キリストとのいわゆる個人的な関係を持つことについてのさまざまなボーンアゲイン団体の教えです。率直に言ってみましょう。この教えは、使徒たちによって教えられた主イエス・キリストの福音の一部ではありません。そして、聖書には「キリストとの個人的な関係」のようなものはありません。

「人間関係」の意味を理解すれば、私たちの時代には、キリストはもう地球上にいないので、誰もがキリストと個人的な関係を築くことはほとんどあり得ないことに気付くでしょう。主は天国にいます。人々が主と話し、主と個人的に交流することができた時代は終わりました。

しかし、キリストはもはや肉体的に存在していませんが、それは私たちがもはや主とのつながりや関係を持つことができないという意味ではありません。私たちはまだできますが、間接的な方法でのみ可能であり、個人的な方法ではありません。

聖書は、ある人がキリストと個人的に接したり、付き合ったりする機会がなくても、その人がキリストと個人的な関係を持つことを不可能にしているとしても、その人はまだ成長できるかもしれないことを証明する特定の場面を引用しました。キリストとのつながりや関係であり、特定の規定の下でまだ救われるかもしれません。これは、マタイ第25章32~46節が言っていることです。

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マタイ 25:32
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

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マタイ 25:33
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

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マタイ 25:34
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

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マタイ 25:35
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

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マタイ 25:36
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

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マタイ 25:37
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

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マタイ 25:38
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

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マタイ 25:39
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

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マタイ 25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

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マタイ 25:41
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

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マタイ 25:42
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

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マタイ 25:43
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

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マタイ 25:44
そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

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マタイ 25:45
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

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マタイ 25:46
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

これらの聖句は、キリストと個人的な関係を持つことは人間の救済の必要条件ではないことを私たちに示しています。ボーンアゲイン団体が話している「キリストとの個人的な関係」が、ないにもかかわらず、神の御国を受け継ぐ特権を与えられる人々がいます。

上記の聖句に見られるように、それらの人々は、キリストに直接、会ったり、見たりしたことがなかったので、彼らがキリストに善行をしたことにさえ気づいていませんでした。しかし、人生のある時点で、彼らは、知らないうちにキリストの兄弟の一人である空腹で喉が渇いた人に、何か食べるものと飲むものを与えました。そして、その単純な親切な行為は、主イエス・キリストとの関係を確立するのにすでに十分です。

彼らとキリストの間で起こった個人的な出会いはありましたか?個人的な関係はありましたか?ありませんでした。彼らが弟子たちに、そして、少なくとも主の兄弟たちに示した親切と思いやりは、彼らと主イエス・キリストとの間の絆を築くのに十分でした。そして、彼らがしたことへの感謝の印として、裁きの日に、主イエス・キリストは彼らを天国の神の御国の相続人にされます。

繰り返しますが、キリストの肉体的な存在がなければ、あなたはキリストと個人的な関係を持つことはできません。しかし、個人的な方法ではありませんが、それでも主との関係を築くことは可能です。

代わりに、それはキリストを信じる同胞を愛し、世話をし、思いやりを持っていることによるものです。マタイ25:40で述べられているように、人がキリストの兄弟たちに与えるすべての親切な行為は、自動的に主に行われたこととして数えられます。主は、その間接的な受信者になります。そして、あなたの善行は、最終的には楽園にて「永遠の命」で報われるので、補償されないままになることはありません。

キリストとの個人的な関係?ご容赦を。聖書にはそのようなことはありません!重要なのは、主イエス・キリストの兄弟たちに対して私たちが行う善行です!

キリストの誕生の日付に関する聖書的な真実



キリスト教徒であると主張する事実上すべての宗教は、クリスマスの壮大なお祝いをします。彼らは、12月25日は主イエス・キリストが肉体で現われ、生まれた日であると信じています。

問題は、その信念には聖書的な根拠があるのか​​ということです。そして、キリストはこの日を祝うようにクリスチャンに命じておられたのでしょうか?

そもそも、12月25日やクリスマスを祝うことは福音書には書かれていません。それは、キリストの戒めではありません。ですから、それがキリストの戒めでなく、福音書に書かれていないのなら、クリスチャンはそれを守るべきではありません。

コリント 一 4:6によれば、

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コリント 一 4:6
さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。

聖書は、書かれていることを超えないようにと私たちに忠告しています。つまり、私たちの信仰は、聖書に書かれていることに固執する必要があります。それらが書かれていなく、単に人工の伝統であるならば、どれほど壮観で贅沢であっても、それらのことはクリスチャンによって取り込んだり、吸収されたりしてはなりません。そして、聖書はキリストの誕生日として12月25日について少しも言及していなかったので、それをあなたの信仰の一部にしないでください。この日付から大騒ぎをする世界中の何十億もの人々の一人になってはいけません。

キリストの生誕地であるベツレヘムは今月、雪に覆われているので、キリストは12月に生まれなかったと確信しています。


伝道者ルカの話によると、キリストが生まれる前夜、野原に羊飼いが放牧しながら羊を見守っていました。

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ルカ 2:7
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

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ルカ 2:8
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

羊は野原で放牧していました。つまり、雪ではなく草など、餌を与えることができる草がありました。したがって、その時は12月ではなかったでしょう。

そもそも、雪の降る夜に彼の右心の羊飼いが群れを連れ出すことはありません。そうでなければ、彼らは凍死するでしょう—羊飼いと彼の群れの両方。

多くの人々が、キリストの実際の誕生が本当に知られていないことを認めているにもかかわらず、この発明されたカトリック教会の教えを信じ、受け入れ続けていることは非常に苛立たしいことです。これは、カトリック百科事典、第2巻、607ページに書かれています。


:通訳:
クリスマス
救い主の誕生の饗宴はクリスマス、キリストのミサと呼ばれています。それは12月25日に祝われ、典礼年の主要な祝宴の1つです。教会暦を参照してください。 主の実際の生年月日は不明であり、その記念は一般に、キリスト教時代の最初の3世紀の間、顕現の饗宴(顕現、1月6日)に含まれていました。 顕現を参照してください。
~~~~~

どうやら、彼らの祝賀の最初の日付は、ローマの教皇がそれを12月25日に変更するまで、1月6日でした。異教のローマ人が彼らの太陽神、偽りの神に敬意を表して彼らの饗宴を祝ったのと同じ日付です。

それはキリストへの大きな侮辱ではありませんか。偽りの神のごちそうと一致する日に、彼に敬意を表してごちそうを予定しています。さらに悪いことに、12月25日には、さまざまなプロテスタント団体や、いわゆる福音派やキリスト教の組織でさえ、クリスマス、つまりキリストの誕生を祝うためにカトリック教徒に加わっています。

実際、Manalo氏のIglesia ni Cristo(INCM)でさえ、クリスマスについてのカトリック教会の発明された物語を信じています。これは、彼らの指導者がカトリックの司祭とプロテスタントの牧師に対して、神のものではなく、サタンまたは悪魔のものであると言って彼らを否定したにもかかわらずです。この厳しい声明は、1961年8月に彼らの公式出版物であるパスゴ集に掲載されました。39ページには、次のように書かれています。


:通訳:
結論として、私たちはカトリックの司祭とプロテスタントの牧師がサタンの牧師であるという理由で彼らを否定すべきです。また、カトリック教会とさまざまなプロテスタント教会は、神のものではなく、サタンまたは悪魔のものであるため、拒否する必要があります。
~~~~~

皮肉なことに、マナロが悪魔であるという理由でカトリック教会とプロテスタント教会を放棄したにもかかわらず、彼らはクリスマスのお祝いに関連してカトリックとプロテスタントの慣習と信念を模倣し、採用しています。

下の写真は、INCM大臣の1人の結婚25周年を表しています。ただし、背景にはクリスマスの装飾とサンタクロースの写真があったことに注意してください。


1969年のパスゴ集の別の号では、16ページに、信仰の姉妹が販売している新しいドレスを宣伝する広告が掲載されました。


:通訳:
クリスマスが近づいています!今すぐお買い物!姉妹のピラール・フェルナンデス、ロザリンダ・ヤダン、エステル・ヤダンが新しい服を発売します!

No. D-E-F—オブレロの市場—マニラ、ブルメントリット
自宅の住所:—2722 Ave. Rizal
電話. 2-68-33
~~~~~
それだけでなく、彼らは三人の王も信じています。以下は、3人の王と比較した3人の信仰の兄弟の写真です。


:通訳:
彼らは、さまざまな場所から来て、地上で救い主の誕生を意味する星の光に従った東方の三博士ではありませんでしたが、3人の王のように、上の3人の男性も彼の教会を通してキリストの教えの光に従いました。
~~~~~

それは愚かさです。幼いイエスに贈り物を持ってきたのは三人の王であるという一般的な信念には真実がありません。王は一人で旅行するわけではないので、彼らが王であった可能性は非常に遠いです—援助も、警備員もいませんでしたよ。

更に重要なことに、聖書は彼らが思慮深い人々であると言っていましたが、彼らが何人であるかについては言及していませんでした。カトリック教徒は、幼いイエスに与えられた贈り物の種類に基づいて、香、金、没薬の3つであると推測しました。

しかし、何故、Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)は12月25日やクリスマスを祝わないのでしょうか。何故なら、キリストがその日に生まれたというのは真実ではないからです。その上、12月25日の日付は、ローマの教皇によって、太陽神に敬意を表して異教のローマ人によって開催された饗宴に対抗するか、おそらく競争するために割り当てられました。クリスチャンとして、私たちは異教や偶像崇拝に関連する汚染されたものには参加しません。

しかし、私たちがキリストのための饗宴を祝っていないという印象を受けないでください。それどころか、私たちは主イエス・キリストだけでなく、御父も称える多くの祝賀会を持っています。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。