祈り深くなろう:クリスチャンは絶えずに祈る


聖書は、私たちが祈るべき正しい時期、または実例を教えています。一つには、定期的に祈らなければなりません。クリスチャンは昼も夜も祈るように神に命じられました。

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テサロニケ 一 5:17
絶えず祈りなさい。

その訓戒はどういう意味ですか?私たちはどのように絶えず祈りますか?それは、私たちが祈りに全時間を費やすことを意味し、例えば、生計のために働くなど、他のことはもうしないということだろうか?

テモテ 二 1:3 はこう説明しています。

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テモテ 二 1:3
私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。

絶えず祈ることは、昼夜を問わず祈ることを意味します。つまり、寝る前、または翌朝目が覚めるとき、または特定の日にやらなければならないことを始める前に、最初に祈る必要があります。あなたが達成すべき必要があることをすべて達成することができたというのならば、神があなたを助けて下さったからこそ、やるべきことができたということを心に留めておいてください。ですから、眠りにつく前に、主に祈って感謝するのが適切です。

主イエス・キリストは、使徒たちに常に祈るように促し、熱心でいつも祈るの出来ることの例を彼らに示しました。

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ルカ 18:1
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

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ルカ 18:2
「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。

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ルカ 18:3
その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。

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ルカ 18:4
彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、

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ルカ 18:5
どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」

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ルカ 18:6
主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。

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ルカ 18:7
まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。

主イエス・キリストは、このたとえ話を、不当な裁判官が未亡人の絶え間ない嘆願に屈するのなら、神がご自身の民の祈りに耳を傾けることは尚更であることだ、と使徒たちを指摘するために語りました。 「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」

クリスチャンが昼夜を問わず祈るのは、聖書の確立された真実です。

寝る前と寝た後に祈る以外にも、私たちが祈るべき他の例があります。また、食べる前に祈らなければなりません。

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テモテ 一 4:4
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。

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テモテ 一 4:5
神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

例えば、現在で私たちは、イスラエル人が豚肉のように食べることを禁止されていた食べ物さえ食べることができます。イスラエル人はこれほど多くのものを食べることを禁じられていましたが、初期クリスチャンの時代に、使徒パウロは彼らに、「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」

私たちの時代、キリスト教の神権時代、肉を食べることを神はもはや禁じられませんでした。主イエス・キリストがご自身がこの地上にいる間に使徒たちと魚を食べたのに、菜食主義を実践している人たちが肉や魚を食べることを拒否するのはなぜだろうか!ベジタリアンだけでなく、現代のその他の宗教でさえ、牛肉や豚肉を食べることを禁止しています。神の御言葉によると、今は肉を食べることができます。ただ、食べる前に祈らなければなりません。あなたが食べようとしている食べ物、そして、実際にあなたが摂取しようとしているすべてのものを祝福されるようにと神に求めてください。

また、私たちは非常に多くの問題に悩まされて、もう何をすべきかわからないとき、私たちが非常に重荷を抱えているとき、私たちが非常に困難な状況にあり、どこにも行けないときは祈るべきです。これらは、私たちが神の助けを必要とする時代です。これらは私たちが祈る必要がある時なのです。

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フィリピ 4:6
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

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フィリピ 4:7
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

人生では、私たち自身の心配と悩みがあります。問題、苦難、病気、経済的なこと等、私たちは非常に多くのことを心配しています。しかし、神の御言葉はとても慰めになり、心強い味方です。私たちは何も心配する必要はありませんが、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

ですから、問題や心配事に悩まされるたびに、神に祈りましょう。もしあなたが神のしもべならば、どんな状況でも、どんな時でも祈るべきです。常に祈りなさい。

神があなたがたを祝福して下さいますように!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

神様はご自身のしもべたちを試しておられる


試験や試練は神から来ます。神は、非常に正当な理由で、しもべたちを試しておられます。

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申命記 13:3
その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。

試験や試練は、あなたが信仰にしっかりと固まっているのか、耐えているのか、そして心や魂を尽くして神を愛しているのかを見るための神の尺度となります。そして、あなたがそうであることが証明されると、あなたは貴重な報いを得るでしょう。

比較する場合は、学校に行くようなもので、まず教師が生徒に授業の主題について徹底的に話し合います。その後、教師は生徒たちが覚えているかどうか、教師が教えたことを生徒たちが理解しているかどうかを調べるために、生徒たちにテストまたは試験を与えます。そして、テストの結果は、それぞれの生徒たちにふさわしい評点を与える際の教師の基礎となります。

神にも同じことが言えます。神は私たちに神の御言葉を教え、その後、私たちが神の教えを理解し、それに従うかどうかを試します。逆境や挑戦の最中であっても、私たちの信仰が不動なままであるかどうかを試してくださいます。私たちが神の試練に合格すれば、神の信頼を獲得します。

信頼は簡単に達成できません。それは行ないが必要なものです。普通の家庭であっても、家の所有者はすぐに使用人に信頼を与えないのではないでしょうか?使用人はまず、主人に自分が信頼できること、誘惑犯でも泥棒でもないことを証明しなければなりません。使用人の信頼性がまだ証明されていないのに、主人がすぐに家とその子どもたちの事を使用人に任せるならば、それはあまりにも危険だからです。しかし、しもべは正直さと従順を証明した後、最終的には主人の信頼を得ます。

神ご自身も、人を試します。神は人々の心を調べ、彼らの心を精査し、彼らが誠実で忠実かどうかを確かめてくださいます。

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エレミヤ書 17:9
人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。
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エレミヤ書 17:10
わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。

そして、あなたが忠実で、信頼できて、悪意がないと神が知った時、神はあなたと共にいます。

試された後、聖書は何と言っているのでしょうか?

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ペトロ 一 1:6
そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、

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ペトロ 一 1:7
信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

使徒ペテロによれば、試験や試練は私たちを悲しませるかもしれませんが、繰り返しや連続して来ても絶望してはいけません。何故なら、それらすべてを克服できれば、私たちは主の苦しみを分け合うことになります。さらに、イエス・キリストの再臨の時に名誉と栄光を得るます。

神は私たちの信仰の深さを見るために私たちを練り、試します。神は、私たちが神への奉仕と服従にしっかりと留まるかどうかを見たいのです。そして、神の試験に合格することは私たちの救いを意味します。

教師から与えられたすべてのテストこと試験に一貫して合格した学生が卒業の資格があるのと同じく、神のしもべとして、神の与えられた試練に合格することができるか、神の御言葉への信仰と従順を神に証明することができるか、私たちが心を尽くして魂を尽くして神を愛することを神に示すことが出来たら、魂の救いに値します。

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ペトロ 一 1:8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

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ペトロ 一 1:9
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

試験や試練に合格した後、私たちは信仰の究極の目標、つまり魂の救いを受け取ります。だからこそ、私たちの生活に聖書のようにやってくる試験や試練に対処することが非常に重要です。

ですから、困難な状況を経験する時、試練を経験するときはいつでも最善のことは祈ることです。怒らない、絶望しないで、ただ祈ってください。

ただ、不幸なことに試験や試練に直面したときに、荒々しく暴力的になる人々がいます。そして、神に助けを求める代わりに、彼らはアルコールと麻薬に頼ります。これがあなたの態度であるならば、あなたは試練に決して合格しません。そして、あなたが試練に合格しなかった場合、結果は、あなたは何の報酬にも値しないでしょう。

しかし、神からの報いを受けたいのなら、神の試験や試練に合格する必要があります。忘れないでください、神の報酬はあなたの魂の救いです。

神があなたがたを祝福して下さいますように!

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「イエス・キリストの失われし数年の謎」 解決


一部の人々は、主イエス・キリストの人生の物語に関する聖書の表現には詳細が欠けているように見えると主張しています。彼らによると、主の誕生と主が既にに宣教活動をしていた時間についての叙述だけだが、主の誕生から主の宣教活動の開始前までに起こった出来事は詳述されていないとのことでした。

そして、これらの申し立てられた欠落した詳細が原因に、何人かの牧師たちは、「キリストがイスラエルを留守したから」という愚かな物語を発明しました。彼らは、「主はインドに行ってそこでヨガを学び、その後、イスラエルに戻られた。」と述べていました。

もちろん、それは大きな嘘です!キリストは決してイスラエルを去っていません。主はそこで産まれ、育ち、宣教をし、死なれ、そして、主はそこで復活なさった。それが主イエス・キリストの完全な物語です。聖書は、キリストの人生の物語のどの期間も見逃しませんでした。そして、主は決してイスラエルを去りませんでした。

イエス・キリストは、生まれてから12歳になるまで、ナザレにて里親と一緒にいました。


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新改訳聖書
ルカ 2:41 ~ 2:51
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ルカ 2:41
さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。

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ルカ 2:42
イエスが十二歳になられたときも、両親は祭りの慣習に従って都へ上り、

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ルカ 2:43
祭りの期間を過ごしてから、帰路についたが、少年イエスはエルサレムにとどまっておられた。両親はそれに気づかなかった。

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ルカ 2:44
イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを行った。それから、親族や知人の中を捜し回ったが、

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ルカ 2:45
見つからなかったので、イエスを捜しながら、エルサレムまで引き返した。

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ルカ 2:46
そしてようやく三日の後に、イエスが宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。

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ルカ 2:47
聞いていた人々はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。

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ルカ 2:48
両親は彼を見て驚き、母は言った。「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」

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ルカ 2:49
するとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」

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ルカ 2:50
しかし両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった。

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ルカ 2:51
それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな、心に留めておいた。

過越しを祝うためにヨセフとマリヤがエルサレムを毎年訪れていたと聖書は私たちに述べています。ユダヤ人は、神の救済と平和を経験し、エジプトの束縛からの解放を記念して祝福するよう命じられました。

過越しの英語版である「passover」という言葉、または他の言語の pascha または paz は、平和を言い表します。イスラエル人がエジプトの地を去る前夜に、「破壊者」がエジプトのすべての家庭にやって来て、エジプト人のすべての長子が死んだことを覚えておく必要があります。しかし、それはイスラエル人の家には入らずに過ぎ越しただけのです。したがって、イスラエル人のうち誰も死ぬことは無かった。

過越しは平和を意味します。すべてのエジプト人の長子の死によりエジプト全土に大きな嘆きがありましたが、死の天使こと「破壊者」がイスラエル人たちを過ぎ越して、イスラエル人の住居には平和がありました。

それはユダヤ人が毎年祝うように命じられた出来事でした。そして12年間、キリストはエルサレムを祝うためにエルサレムに行くたびに、常に里親と一緒にいました。

キリストが12歳の時に起こった出来事がありました。ヨセフとマリヤは過越しを祝うためにエルサレムに行きましたが、ナザレに戻ったとき、12歳のイエスが一緒にいないことにすぐには気づきませんでした。イエスが彼らの親族や知人と一緒にいると夫婦はずっと考えていました。夫婦がイエスが親族や知人と一緒にいないことを知ったとき、夫婦はエルサレムに戻り、イエスが神殿にいるこことを知るまで、3日間もイエスを探し回りました。

マリヤはイエスを見て、イエスに言った、

マリヤ「まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」

イエス「どうしてわたしをお捜しになったのですか。」 と主イエス・キリストは答えました。

マリヤとヨセフはイエスが仰せられたことを理解していませんでしたが、ルカ 2:51「それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、・・・」

これはイエスが帰りに里親と共にナザレへ帰ったことを意味します。つまり、イエス・キリストが育ったのはナザレでした。


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イエス・キリストが育ったのはナザレでした。
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ルカ 4:16
それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。

キリストがナザレにて成長しなければ、ナザレ人とは呼ばれません。主が青年になったとき、キリストは何をしていましたか?

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マルコ 6:3
この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

キリストはすでに宣教活動を始めました。主は大工であった主の養父ヨセフの技術と職業を受け継いだため、主は大工と呼ばれました。また、「マリヤの子」と聖書は呼んでいました。何故なら、主が宣教活動をしていたとき、ヨセフは既に亡くなっていたからです。

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ルカ 3:23
教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、

イエス・キリストが宣教活動を始めた時、主はおよそ30歳でした。これは、12歳から約30歳の時までは、主はナザレにいたことを意味します。

ユダヤ人は、主が大工職ヨセフの子であることを知っていました。また、大工の子であるため、主が教育を受けたことがないことも知っていました。彼らが主の宣教を聞いたとき、彼らが主の卓越性に驚いた理由だったのです。

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ヨハネ 7:15
ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」

彼らは、主が若い時から宣教をする時まで、主の人生を目撃したために、主が教育を受けていないことを知っていました。

それが、主がイスラエルを去ってインドに行き、18年間そこに留まったと信じるのは馬鹿げている理由です。

なぜなら、主の人生全体を実際に目撃した人々がいたからです。


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聖書の記述は完全である。
キリストは決してイスラエルを去らなかった。
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聖書の記述は完全です。キリストは決してイスラエルを去りませんでした。主はそこに留まりました。主は大工として働いていた場所でした(イスラエルのナザレ)。そこも主キリストが宣教した場所でした。宣教後、主は十字架に架けられました。主が死んだとき、主は3日後に復活しました。主は使徒たちの所に留まり、40日40晩、彼らに教えました。 40日後、使徒たちは天国へ上られたことを目撃しました。それがキリストの完全な物語です。何も欠けてはいません。

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使徒 1:21
ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、

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使徒 1:22
すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」

ルカは、起こったことすべてを完全に理解していました。そして、彼は書の中で、主イエス・キリストがイスラエルにおられなかったり、他のどこかにおられたことを決して述べませんでした。

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ルカ 1:1
私たちの間ですでに確信されている出来事については、(V.2挿入)多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、

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ルカ 1:2
初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、

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ルカ 1:3
私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。

伝道者としてのルカは、最初からすべてのことを徹底的に調査しました。それが、主イエス・キリストの人生の物語に関する彼の説明が、適切な年表に従って完全かつ包括的である理由です。

ルカの福音書は、バプテスマのヨハネを紹介することから始まり、キリストを紹介した人でもありました。そして、ルカはキリストの誕生と、主が生まれた月と年を含んで、産まれた場所についても話しました。

過越しを記念して毎年エルサレムに行ったとき、キリストがどのように里親家族に加わったのかを12年間にわたってルカもまた語りました。また、主が大工として働いた方法、そして、主が30歳のとき、主はバプテスマのヨハネからバプテスマを受け、それから主は宣教活動等を始めました。そして最後に、主の死、復活、そして天へに上られる時までです。つまり、ルカが表現したのは、キリストの人生の物語の完全な表現でした。何も欠けてはいません。

あなたに神のご加護を!

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私たちの体は生きた供え物である


現在の神権時代において、だれでも神に生贄をまだ捧げることができますか?どうやって?そして、私たちは何を捧げるべきでしょうか?

今日も、多くの牧師がメンバーにお金やその他の物質的な生贄を捧げることを求めていることは明らかです。ですから、聖書から、クリスチャンたる者が神に捧げるのにそれらは必要な正当な捧げ物と生贄であるかどうかを知ることは賢明です。

さまざまな種類の動物の生贄のように、聖書で読むことができる多くの生贄があります。しかし、主イエス・キリストが来られた時、それらはみな終わらされたことを理解しなければなりません。

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ヘブライ 10:5
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

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ヘブライ 10:6
あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。

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ヘブライ 10:7
そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行なうために。』」

主イエス・キリストが地上に来られたとき、神がもはやイスラエル人がしたことと同様の生贄と捧げ物を望んでいないと主は仰せられました。イスラエル人は動物を生贄にし、さまざまな意図で動物に神に捧げたことを忘れないでください。主イエスの肉体は、生贄にするために与えられたので、動物等の生贄はもはや神が私たちに求めるものではなくなりました。

主イエス・キリストが来られた時、主の生贄にされる何かを主が持っておられました。そして、それは主の肉体でした。主の肉体は私たちの罪への生贄として十字架に架けられました。これで、究極の生贄が主イエス・キリストによってもたらされたため、動物を生贄にする必要がもうない理由です。

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ヘブライ 10:10
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。

主イエス・キリストがなさったことは、十分な生贄です。主の肉体の捧げ物は、一度で全てを覆いました。しかし、なぜ多くの牧師が今も、動物、そして特にお金を生贄にすることを人々に教えるのですか?それは彼らに利益をもたらすからです。それは彼らがお金を大いに愛しているからです。

私たちが今、生贄を捧げたいのなら、私たちの生贄が主イエス・キリストの福音に従ったものであるかどうかに気づかなければなりません。

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ローマ 12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

これは、主イエス・キリストによって私たちに教えられた供え物です。聖句は、私たちは自分の体を神への生きた供え物として捧げることができると仰せられています。それは私たちの霊的崇拝です。問題は、どうすれば自分の体を神への生きた供え物として捧げることができるのかということです。

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ローマ 6:13
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

生きた供え物になるには、自分自身を神の義の器として使わなければなりません。私たちは、他の人々に善行をするための神の器になる必要があります。ヨブがしたように。

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ヨブ記 29:15
私は盲人の目となり、足なえの足となった。

ヨブは他の人々に奉仕するために、自分自身、彼の器官または彼の体の部分を使いました。彼は神の義の器になりました。彼は盲人の目となり、足の不自由な人の足となりました。つまり、彼は無力な人と困っている人に仕えました。ヨブは他の人に善行をしました。そのようにして、義の供え物として彼は自分の体を供えることができました。

したがって、私たちの時代では、生贄というのは、多くの牧師が主張するようなお金や他の物質的なものを提供するばかりではありません。聖書によると、私たちの体は、善を行い、他の人に親切行為を示すことによって、神への供え物として捧げられます。アーメン!

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マリアの母胎にではなく、永遠にてキリストの存在が始まったのである。以上。


主イエス・キリストの存在はいつどこで始まりましたか?主の存在は、Manalo の Iglesia ni Cristo が信じているように、マリアによって妊娠されたときにの主の存在が始まったのでしょうか?

この宗教団体の特定の信念は、公式出版物 Pasugo に掲載されている記事で表現されています。

翻訳:
この世界が確立する前に、最初にキリストがいただろうか?答えは、天使がマリアに言ったことに基づいて明確であり、彼女は妊娠して、イエスと呼ばれる息子を生むだろうと、ルカ1:31。天使の答えから、キリストの存在は聖母マリアの胎内で始まった。


Manalo の INC は、マリアが天使に「あなたはみごもって、」と言われたときにのみ、キリストの存在が始まったと主張しています。マリアの受胎前には、まだキリストが存在していなかったことを意味してしまう。しかし、あなたがルカ1:31に記されていることを調べようとするなら、「 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。 」と、これらの節句がキリストのことはマリアの母胎から存在し始めただと別に言っていません。

科学的に言えば、人間の命は母親の母胎からではなく、父親の腰から始まります。人のは身元は父親の懐から始まります。私たちの存在の図面となる父親の遺伝子が当人の父親と母親から来るとしても、聖書的に言えば、父親から来るものはより大きな影響を及ぼします。

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ヘブライ 7:9
また、いうならば、十分の一を受け取るレビでさえアブラハムを通して十分の一を納めているのです。

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ヘブライ 7:10
というのは、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいたからです。
霊的および科学的に、レビはアブラハムの腰から始まりました。彼の誕生前から、彼はすでにアブラハムの腰に450年前からいたのです。これは、科学的に言えば、第7世代から第10世代までの遺伝子が含まれることを意味します

後方に。

科学によれば、生細胞は父親の23染色体と母親からの別の23染色体から形成されます。実際、骨、靭帯、肉などの細胞のように、体のすべての細胞は46の染色体があります。男性の精子細胞と女性の卵細胞のみがそれぞれ23の染色体を含んでいます。しかし、精子細胞と卵細胞が結合すると、46個の染色体を持つ新しい細胞が形成されます。この新しい細胞は後に胎児になり、9か月後には新しい人間として生まれます。私が叩き込もうとしている点は、レビはまだ450年前までに生まれていなかったが、彼はすでにアブラハムの懐にいました。つまり、すでにアブラハムにあった遺伝子は450年後にレビに継がれることになりました。それを証明する文字通りおよび科学的に、私たちの存在は母親の母胎から始まっているわけではありません。それが科学的な理由です。キリストの存在は、マリアが母胎でイエスを妊娠したときにのみ始まったと言うのは間違っています。霊的な話にも間違っています。何故なのか?キリストの存在は地球上、ここから始まったわけではないからです!

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ヘブライ 10:5
ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。

聖句は主イエス・キリストに言及しています。 「この世界に来て、」とは、主がこの世界から始まったのではないという意味です。主がこの世界に来られた時、主のために体は用意されていました。それはどんな体だった?体だったそれはマリアによって宿られたものです。それがマリアから始まった体、つまりキリストの肉体でした。

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ヨハネ 1:14
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

キリストがこの世界から始まったのではないというのならば、どこからなのでしょうか?

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ミカ書 5:2
ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

ミカの預言によれば、ベツレヘムからイスラエルを治める者が出て、この支配者は御父が彼をもうけた永遠から来られたのです。

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詩編 2:7
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。

御父はキリストをも生みました。そして、それは聖書的な事実の一つであり、一部の人々は信じることを拒否しています。しかし、それは真実です。世界の創造以前から御父は御自分の御子を生みました。

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ヨハネ 3:6
肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。

つまり、霊は生むことが出来るのです。

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ヘブライ 12:9
さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。

御父なる神は霊です。御父は「霊の父」とも呼ばれます。本質的に、神は御子を霊的存在として生み、後に天使等の霊的存在を創造したので、御父は「霊の父」と呼ばれています!

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ヨハネ 4:24
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

私たちが混乱しないように、私たちは常にキリストに二つのことがあることを覚えておく必要があります。第一に、御父によって生まれた霊。第二に、マリアから生まれた肉体。この世界に来たのは、永遠にて霊的に御父が生んで下さった神の御子でした​​。そして、神の御子がこの世界に来られた時、御子はマリアから生まれたの肉体に宿られました。

Manalo の INC がその会員たちから隠しているのは、御父御自身から生まれた御子を持っておられているという聖書の真実です。

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ヘブライ 1:4
御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。

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ヘブライ 1:5

神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

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ヘブライ 1:6
さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」

御父の最初に生まれたのはキリストであり、主はこの世へ遣わされただけです。主は永遠から来られたので、主は地上で始まったのではありません。

さて、キリストが御父によって生み出された時、または遣われる前のキリストはどこにおられましたか?

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ヨハネ 1:18
いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

キリストは御父の懐から来られました。御子は御父のひとり子です。

The New American Standard Bible は、ギリシャ語聖書に準拠しているため、ヨハネ 1:18の表現が優れています。それはこう言われています。

No one has seen God at any time; the only begotten God, who is in the bosom of the Father, He has explained Him.

ギリシャ語の原典では、「the only begotten God.」と書かれています。

IΩANNHN 1:18 (Greek Wescott-Hort Transliterated):

Theon oudeis eoraken popote monogenes theos o on eis ton kolpon tou patros ekeinos exegesato.

“MONOGENES THEOS” = 生まれた神

キリストは御父の懐におられたのです。永遠にて、主は御父の存在の一部でした。しかし、御父が主をお生みになられる必要になる時が来ました。

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ヨハネ 17:5
今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

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ヨハネ 17:24
父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

世界の創造の前に、御父から来られる栄光をキリストは既にお受けになられ、それを楽しめたのです。 その栄光とは何か?それは神の御子になるという栄光です。“わたしの子、” と御父が主に仰せられたのは、キリストをお生みになられたのは御父だからです。御父が御子を生んだのです。

他の人が懐疑的であるのは、御父が男であるという理由だけで子が生めるかどうかの能力です。

実は、男が子を生めるというのは霊的と物理的に両方可能なのです。

物理的に、雄は出産することが出来ます。


翻訳:
それは魚類の中での父親となる者がする子の世話に対する一般的な僻みから生じますますが、雌よりも、雄のタツノオトシゴの方が妊娠します。この珍しい生殖っぷりは今まで発見された雄の子育ての形でした。

妊娠して出産するのは雄のタツノオトシゴです。

雄が産むことが物理的に可能ならば、霊的になるともっと可能です。神は全能だから、御父こそが全能なる神だからです。御父が御子を生むことは難しくなることだと私は思いません。

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詩編 94:9
耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。

人間は見ることも聞くこともできます。これらの機能により、私たち人類は私たち自身の視覚と聴覚を支配する原理を発見しました。これは後にカメラを発明したときに適用され、画像を撮影するレンズと、マイクという聞くものを拾ってそれを声に出す耳に基づいて発明しました。

私たち人間が、限界があるにもかかわらず、カメラやマイクなどの素晴らしい発明を思いつくことができれば、全能の神様になるとなおさらどれほどなのことでしょう! 「耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。 」ですから、「子宮を造られた方が、身ごもらないだろうか。」とも言えるでしょう。もちろん、それは神にとって非常に可能なことです。

主イエス・キリストの存在は、御父と共に永遠に始まりました。実際、御父と御子は共に世界を創造しました。

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箴言 30:4
だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

御父と御子が人間を含めて、全てを創造なさった方々なのです。最初の人間が創造されたとき・・・

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創世記 1:26
そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

“われわれに” と “われわれの” という発言は、御父は御自分と一緒にいた別の存在について話をしておられることを暗示し、それは永遠にて御父からお生みになられたご自身のの御子だったということです。

Manalo の INC が受け入れられないのは、主イエスキリストの神性さです。彼らにとって、神はただひとちであり、それは御父です。私はひとりの神がおられることに異論はありませんが、聖書の中でそのひとりの神が誰であるかを明確にしなければなりません。使用されたヘブライ語はエロヒムであり、これは神を意味する単数名詞のエロアの「複数形」です。したがって、エロヒムは神を意味します。エロヒムは言った、「われわれのかたちに、人を造ろう。」

エロヒムは単数形だけですが、エロヒムは御父だけではないということで具体化されています。音楽バンドのように。音楽バンドは1つと考えていますが、それでも複数のミュージシャンで構成されています。キーボード奏者、ギタリスト、ドラマー、バイオリン奏者、トランペット奏者などで構成されていますが、バンドと呼ばれています。家族も同じです。これは単数名詞でもありますが、家族の中には、父、母、子ども、祖父母がいます。

何を言おうとしているのでしょうか?聖書が言及している唯一の神は、ヘブライ語のエロヒムから来ました。意味は、それは御父に限定されないということです。エロヒムの中には、御父、御子、聖霊がいます。

これは Manalo の INC の 職者たちが会員に決して教えないものであると確信しています。また、キリストを「Monogenes Theos」または「ひとりの神」と呼ばれていた元の言語であるギリシャ語版のヨハネ1:18をも彼らは読もうとしません。「マリアが自分の母胎で彼を妊娠したとき、その存在は始まった」という彼らの代々からの古い教義を粉砕するからです。

しかし、私が引用した聖句は、キリストの存在がマリアの胎内で始まったのではないことを証明するのに十分です。創造の時でも御子は御父と共におられました。そして、御子は神なる存在です—聖書は御子を「ひとりの神」または「Monogenes Theos」と呼んでいます。アーメン!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

聖書を濫用する宗教らがどうやって人々に惨めさをもたらすのか

Proofs that the Bible is Reliable and Truthful

一部の人々が真実の源としての聖書の信頼性と権威を疑う理由の1つは、現在の多くの宗教は、聖書が彼らの信仰の基礎であるという主張しているにもかかわらず、彼らの教え、実践、信念が異なるという事実です。つまり、彼らは共通の信仰を持っていないことであり、共通の教えや教義を共有していない。

率直に言って、聖書は自分たちの信仰の基盤であると主張しているすべての宗教が真実を語っているわけではありません。彼らのほとんどは信仰の基盤として聖書を使っておらず、代わりにカトリック教会のように聖書によって決して教えられない教義をより厳守したりします。

カトリック教会は聖書の根拠が無い非常に多くの教義を発明しましたが、それらはカトリック教徒によって疑いなく受け入れられ、従われています。たとえば、マリアは罪がなく汚れのない者であると信じていますが、聖書はマリアが罪を犯していないとは決して述べていません。また、彼女が死んだとき、彼女の肉体さえ天国にそのまま運ばれたと彼らは信じています。しかし、それは聖書的ではありません。聖書に反することです。


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翻訳:
カトリック教徒の人生 ページ63
権威筋の承認: Artemio G. Casas
印刷許可: Rufino J. Santos

神は、御自分の御子の母親となった者が完全な神聖さを持つ(または達成する)ことを望んでいた(または望んでいた)。そのため、マリアが妊娠した途端に、神はすぐ彼女が先祖から受け継がれる原罪を犯さないようにた。これは、1854年に教皇Pius 9世によってカトリック信仰の教義の1つとして承認され、宣言された無原罪懐胎と呼ばれるものである。
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翻訳:
カトリック教徒の人生 ページ63
権威筋の承認: Artemio G. Casas, Pbro.; Imprimatur: Rufino J. Santos, D.D.
記者: Gerard Linssen C.I.C.M., S.T.D.

聖マリアが死んだとき、彼女は天国へ、魂、肉体ごと連れて行かれた。神はマリアの最も神聖な体(神がイエスの人間の形を産むための肉体)が腐ることを許可しなかった。復活の中で最も待ち望まれていた聖人たる者の栄光は、神の聖なる母に、その死の瞬間に与えられた。彼女は息子の苦しみと死を分かち合えた後、主の復活と栄光において主と共に特別な祝福を与えられた。
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現在の多くの宗教の教義上の違いによるの不調和は、聖書が言っていることを理解していないことの表わしです。彼らが本当に神とそれぞれの信仰がすべて聖書に基づいている場合、彼らが主張するように、そのような意見の相違や相違は存在しないはず。それは、聖書が本当に彼らの信仰の基礎ではなく、何か他のものであることを証明しているだけです。

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使徒 4:11
『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。

キリスト教信仰の基盤はキリストです。キリストは、キリスト教信仰の主要な礎石です。クリスチャンは、キリスト以外の基盤を持ってはなりません。今日、多くの宗教は教義上の問題を抱えています。なぜなら、キリストは彼らの信仰の基盤ではなく、また聖書のことを真理の権威と見なしていないからです。代わりに、彼らの信仰は、人間の信念と推測、および人間によって発明された教義に基づいています。

確かに、聖書は真実の信頼性に関しては信頼できる情報源となるものです。考古学、歴史、科学、および他の多くの研究分野は、聖書が精神的、科学的、歴史的であっても真実の権威であることを証明されています。私の主張を証明する例を挙げてみましょう。

過去には、人々は地球が平らであると信じていました。実際、今まで、地球は平らであり、丸くはないと信じている人々がまだいます。これらの人々は自分自身を「地球平面協会」と呼んでいます。地球が丸いことを彼らに証明するために、実験が行われました。彼らは、色とりどりの旗を掲げた船を地平線に向かって航海させました。さらに航海するにつれて、彼らは船が徐々に姿を消し、最終的に姿を消して地球が平らではないことを証明しました。地球が平らであれば、たとえ船が非常に遠くまで航海していても、かすかに微細な痕跡が残るからです。しかし、なぜそれは消えたのですか?地球には曲率があるためです。国際宇宙ステーションのライブ映像を見ると、地球の曲率がわかります。


国際宇宙ステーションは地球に近いため、地球の完全な画像をキャプチャすることはできませんが、60年代後半にアメリカによって月に打ち上げられたアポロ11号は、最初の全景、地球の写真を撮影することができました。そして、その写真は地球が丸いことを証明しました。


しかし、米国がそれを行う前でさえ、ロシアはすでに1966年にロシアのモルニヤ衛星から見た地球の写真を撮影していた。写真は同様に地球が球形であることを示した。


2,700年以上前にイザヤ書がすでに地球が丸いことをほのめかしていたため、そのような発見はすでにかなり遅れていたと思います。イザヤ書は紀元前723年に書かれましたが、現在はキリストから2,000年が経過しています。 2019年に723を追加すると、イザヤ書が書かれてからの年数がわかります。 2,700年以上前です。

イザヤは2、700年以上前に地球について何を書きましたか?

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イザヤ書 40:22
主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

地球に円がある場合、それは平らではありません。 流星と隕石を除いて、月や他の天体と同じです。ほとんどすべての天体が丸いことに気づくでしょう。形成中に、周囲に同じ圧力がかかったことを意味します。子どもたちが遊ぶ泡を観察してみてください。周囲の圧力が等しいため、すべての泡は丸い。宇宙はそのようなものです。ほとんどすべての天体には同じ圧力がかかっているため、ほとんどの天体は丸くなっています。地球が丸いという真理は、科学がそれを発見するずっと前に聖書に記録されており、聖書が真理の権威であることを証明しています。

歴史に関して言えば、聖書は他のどの歴史書よりも信頼性が高く、完全です。なぜそう言えるのでしょうか?アッシリア帝国の歴史において、アッシリアにはかつてサルゴンという名前の王がいたことは言及されていませんでした。彼らの公式文書には記録されていなかったが、聖書に、特にイザヤ書20:1に記録されています。

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イザヤ書 20:1
アッシリヤの王サルゴンによって派遣されたタルタンがアシュドデに来て、アシュドデを攻め、これを取った年、・・

聖書はアッシリアの王サルゴンについて言及しています。彼の名前が彼らの歴史の本で決して言及されなかったので、アッシリア人は彼のこと知りませんでした。これが、アッシリアの歴史家が聖書を信用しようとしなかった理由の一つです。彼らは、彼らが知らなかったサルゴン王に聖書が言及したことで聖書は虚偽を話すと聖書を非難した。

実際、アッシリアの歴史にサルゴン王の名前がなかったことは、聖書の信頼性を疑問視する十分な理由ではありません。なぜなら、著名の一人で、聖書の人物であるモーゼでさえエジプトの歴史には言及されていなかったからです。そして、エジプトの歴史家は、モーゼとイスラエル人を400年以上奴隷にしたにもかかわらず、エジプトとエジプト人を非常に不名誉なものにしてしまうため、意図的にエジプトの歴史に言及しなかったことは明らかです。恥ずかしい歴史。神がイスラエル人の側にいたため、エジプト人はイスラエル人に敗れたことを思い出してください。エジプト王国全体が神の呪いによって荒廃しました。それで、彼らは恥と侮辱から身を守るために、彼らの歴史的記録からモーセの名前を消すことを選びました。

アッシリアとエジプトの両方の歴史的文書は、それぞれサルゴン王とモーセの名前を歴史から削除したため、不完全で不正確であると言えます。しかし、歴史書としての聖書は完全で正確です。

サルゴンという名前のアッシリア王が実際に存在したことを証明する物理的証拠が発見されました。 1842年、フランスの考古学者 Paul-Émile Botta によって、サルゴン王の名前と肖像が刻まれた石灰岩のレリーフが発見されました。この人工遺物の発見は、聖書が本当に真実を語っていることをさらに証明しています。


約2800年前に聖書が語った別の科学的真実は、科学が「ブラックホール」と呼ぶものに関係しています。ブラックホールは、巨大な星が爆発した宇宙の場所です。科学がそれを知る前に、聖書はすでに宇宙にある星たちには老朽化するものがあると予言していました。新しい星が形成される星の場所となる(赤い巨星が爆発した所)や、新しい銀河が形成されることにもなる銀河同士の衝突のような宇宙の過程でさえ、科学によって発見されるずっと前に聖書にすでに書かれていた。

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詩編 102:26
これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。すべてのものは衣のようにすり切れます。あなたが着物のように取り替えられると、それらは変わってしまいます。


私が引用したのは、聖書の真実性と信頼性の非常に多くの証拠のほんの一部に過ぎないのです。間違いなく、聖書はすべての真理の基礎であり、それらが物理的、科学的、または精神的なものであることを証明しています。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

祈る家のみで、祈りの家はもうありません


私たちは、なぜ今はもはや祈りの家を持たないのですか?それは、聖書の真理を熱心に探求する人から来た質問であり、彼の質問がマタイ21:13を前提としていることは明らかです。

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マタイ 21:13
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

これを理解するために、主イエス・キリストが「~と書いてある」と言ったことに注意してください。それゆえ、キリストは聖書の書かれた部分を引用していました。

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イザヤ書 56:7
わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。

主の家は祈りの家となるでしょう。神のこの特定の宣言は、歴代誌の書と列王記上にも記録されています。国家への預言者エレミヤも同様に、神の祈りの家を強盗や泥棒の巣穴に変える人が本当にいるだろうと予言しました。

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エレミヤ書 7:11
わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。・・主の御告げ。・・

ですから、主イエス・キリストによって言われる前でさえ、預言者エレミヤによってすでに預言されていました。

キリストが仰せられたのは、

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マタイ 21:13

そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

主は聖書を引用していました。それはもともと主から来たのではありません。主イエス・キリストが御父の御言葉を宣べ伝えるために御父から遣わされたことを思い出してください。それが、旧約聖書に主イエス・キリストによって繰り返された御父の宣言があったことが理由です。

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ヨハネ 12:49
わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

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ヨハネ 12:50
わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」

私たちは、主イエス・キリストが語ったことは何でも、それらがまさに御父の御言葉であったと確信することができます。

キリストは、彼らが神の家を作ったと仰せられました。それは祈りの家、泥棒の巣であり、両替商や鳩、子羊などの売り手の商店になったからです。鳩と子羊はユダヤ人が祭壇で供えていたものであったことを思い出してください。そのため、主イエス・キリストの時代のそれらの商人たちはそれらの品を簡単に買えるようにしたので、神の祈りの家は泥棒の巣穴と化しました。

さて、なぜ祈りの家はもうないのですか?この質問は、歴史に、霊的に少し触れなければなりません。

主イエス・キリストの時代、西暦39年か西暦40年になるべきです。 。 。なぜ西暦40年と言ったのか?それは、現在のカレンダーであるローマ暦が間違っているためです。約5年または6年ほど遅いのです。ローマ暦では、既に2025年または2024年であるはずの2019年であることを示しています。

実際に生まれたのは何年ですか?
ZENIT 国際情報共同通信社

Dionysius Exiguus が中世のキリストの生年月日を計算したとき、彼はキリスト降誕の年を西暦1年と命名し、イエスの生年月日はその年の12月25日であると述べました。この直前の年は紀元前1年でした。数学的に無知なのか、誤った設計からなのか、彼は零年を含めませんでした。

問題をさらに複雑に、Dionysius は計算に誤りを犯したようです。聖書がキリストの誕生の時に生きていたと言われているヘロデ大王は、紀元前4年に亡くなりました。Josephus の報告に基づいています。マタイの福音書によれば、ヘロデが占星術の学者たちを騙し、子ども(主キリスト)の元へ自分を導かせることが出来なかった時、ベツレヘムのすべての男児の虐殺を命じました。ヘロデの命令(福音の外では証明されていないが、彼の歴史記録と一致しています。)は、2歳未満のすべての赤ちゃんを殺すことであったため、この出来事はキリストの生後2年以内に起こりました。これがヘロデの人生の終わり近くに起こったと仮定すると(そうであるように思われます)、これは今のカレンダーから数えると、紀元前5年または6年がキリストの誕生となっているのです。

現実には、キリストは紀元前1年に生まれたのではありません。歴史家が私たちに信じさせようとしていることとして、上記の記事は、紀元前6年にキリストの誕生を、紀元前6年、紀元前9、紀元前8、紀元前7.、紀元前6、紀元前5、紀元前4、紀元前3.と数えなければならないという事実を考慮して、紀元前6年にキリストの誕生として、そこから始まって数えるとその次の年が紀元前2、紀元前1、0年、西暦1のように続きます。したがって、私たちのカレンダーは現在、ほぼ6年分ほど遅れています。

カトリック教徒の推定によると、主イエス・キリストがエルサレムにいたとき、私たちが今持っているカレンダー(ほぼ6年分不足している)を使用しようとすると、彼は33歳となります。その時、主は神殿、または祈りの家が破壊されると使徒たちに告げました。主が当時33歳だった場合、そして不足している6歳を追加しようとするなら、西暦39年または40年未満のようなものでなければなりません。

主が使徒たちに語ったのは、実際には、西暦70年のエルサレムの完全な破壊の予言的な宣言でした。神殿を破壊したローマ軍によるエルサレムでの戦争が西暦70年に起こったことを証明する事実があります。

ティトゥスの凱旋門. . .


ティトゥスの凱旋門は、フォロ・ロマーノの南東にあるローマのサクラ通りにある1世紀の名誉ある凱旋門です。西暦82年に、Domitian 帝王が兄弟のTitusの死後まもなく、西暦70年のエルサレムの包囲戦を含む、Titusの勝利を記念して建設されました。

ローマのサクラにあるティトゥスの凱旋門と呼ばれるその記念凱旋門は、西暦70年にエルサレムで実際に戦争があったことを確認しています。

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マタイ 24:1
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

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マタイ 24:2
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

キリストは使徒たちに神殿、または祈りの家の破壊を予告していました。

質問に答えるために、なぜ今祈りの家がないのですか?物理的には、戦争中に破壊されたため、神殿はもうありません。残っているのは、嘆きの壁と呼ばれるエルサレムの壁です。ユダヤ教の会員が祈る場所です。元の寺院はもうありません。他の寺院に置き換えられていました。エルサレムには、カトリックの建物があります。イスラム教徒に属する岩のドームもあります。イスラム教徒、ユダヤ人、キリスト教徒が常に争っている特定の部分もあります。常に戦いがあるのです。

祈りの家、または、もともとソロモンによって建てられたエルサレムの神殿は、ローマ帝国によって引き起こされた西暦70年の戦争中に破壊されました。その破壊は、それが起こる30年前に主イエス・キリストによって予告されていました。また、預言者ダニエルによって預言されていました。

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ダニエル書 9:2
すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。

預言者ダニエルはエルサレムで荒廃が起こると予言しました。主イエス・キリストも同様に、エルサレムで起こる荒廃の憎悪を予告しました。

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マタイ 24:15
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

私たちは皆、言及されている聖地が神殿であることを知っています。主イエス・キリストは、預言者ダニエルが語ったことを引用して、その破壊を予言していました。つまり、主イエス・キリストは預言者ダニエルに言及し、ダニエルは預言者エレミヤにも言及しました。預言者エレミヤはエルサレムに降りかかるであろう荒廃についてさらに多くの情報を提供しました。

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エレミヤ書 4:11
その時、この民とエルサレムにこう告げられる。荒野にある裸の丘の熱風が、わたしの民の娘のほうに吹いて来る。・・吹き分けるためでもなく、清めるためでもない。

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エレミヤ書 4:12
これよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今、わたしは彼らにさばきを下そう。

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エレミヤ書 4:13
見よ。それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう、その馬は鷲よりも速い。ああ。私たちは荒らされる。

エレミヤが言及した「つむじ風」は、文字通りのつむじ風を指していません。文字通りのつむじ風は、特に強い場合、実際には扇風機とクレンジングのためです。文字通りのつむじ風には冷却効果があり、汚れを取り除くことができます。しかし、彼が言及した「つむじ風」は反対のことをします。それは扇風機ではない、熱をもたらすものです。そして、それは浄化するのではなく、汚物をもたらすものです。

その「つむじ風」とは何ですか?確かに、これには戦車があるので普通のつむじ風ではありません。 「つむじ風」とは、エルサレムで起こるはずの悪いことを指します。

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エレミヤ書 4:19
私のはらわた、私のはらわた。私は痛み苦しむ。私の心臓の壁よ。私の心は高鳴り、私はもう、黙っていられない。私のたましいよ。おまえが角笛の音と、戦いの雄たけびを聞くからだ。

非常に明確に、「つむじ風」はエルサレムで起こるであろう戦争を意味しました。実際、この戦争が起こり、エルサレムの破壊を引き起こしました。祈りの家と呼ばれる寺院は完全に破壊され、別の石の上に石が残っていませんでした。しかし今では、その寺院、または祈りの家は、すべて反キリストである異なる宗教の寺院に置き換えられていました。

しかし、神が聖書で教えている別の「家」があります。これは教会を象徴する家です。

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テモテ 一 3:15
それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。

今、私たちは永遠に続くことを意図した「家」を持っています。主イエス・キリストによって建てられたために破壊されない家。主は仰せられた、

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マタイ 16:18
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

この世界の力は、教会や神の家を破壊することはできません。

私たちが現在地上に持っている霊的な家は、その教義、規則、法律が完全に聖書に記録されている神の教会です。教会は永遠に存在することを意図した神の家です。

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エフェソ 3:10
これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、

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エフェソ 3:11
私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

永遠の目的に従って神の多様な知恵を教えるように神から命じられた教会です。主イエス・キリストが私たちの時代の最初の世紀に建てた教会は、神が永遠なのだと運命づけられた存在です。もう破壊されることはありません。

エルサレムの最初の神の家は祈りの家でした。破壊されていて、もう無くなりました。今、私たちには永遠の別の家、教会、または神の家があります。それが祈りの家と呼ぶにはもはやふさわしくない理由です。祈る家と呼ばれるようになりました。

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ヘブライ 3:6
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

これをよりよく理解するためには・・・

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ヘブライ 10:21
また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

神の家には大祭司がいます。それが主イエス・キリストです。

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ヘブライ 3:1
そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。

キリストは、神の教会である神の家の大祭司です。家は教会そのものです。それは建物ではありません。コンクリート、レンガ、鋼等で作られた構造ではありません。

教会は今、神の家です。エルサレムの神の家は祈りの家と呼ばれることに同意します。しかし、それはもはや成り立ちません。 2000年前に破壊されていました。しかし、決して破壊されない家があります。神の家であり、神の教会です。

1世紀のクリスチャンたちはこう言いました、

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ヘブライ 3:6
しかし、キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。

神の教会で私たちが神の家であるなら、神の教会は祈りの家と呼ばれるべきではありません。代わりに、それは当然、祈る家と呼ばれなければなりません。

神への賛美あれ!

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