クリスチャンたちは礼拝堂や神殿を建てるように命じられていない

神が礼拝堂のように人の手で作られた構造物に住まわれないのなら、なぜ神はハガイ1:4-9に書かれているように、家を建てるようにイスラエル人に命じたのですか?そして、礼拝堂や神殿を建てないのであれば、どこで神を礼拝しますか?

これらは、「神が信者に神のために家を建てるように命じられた、そして、この家は礼拝堂または神殿であるかもしれない。そして、それらは神を礼拝するのに、唯一の正当な場所だ。」という考えを持っている人々からの質問です。

ソロモンが神のために神殿や家を建てたことは事実です。最初にそれを構築することを計画したのはダビデでしたが、この計画はソロモンの治世中に実現されました。

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列王記上 6:1
イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。

非常に具体的な詳細は、聖句によって提供されています。ソロモンはイスラエル人がエジプトを出てから480年後に主の家を建て始めました。それはイスラエルの王として彼の統治の4年目でした。そして、それはヘブライ暦の2番目の月である月「Zif」から始まった。

その建設が完了すると、ソロモンはそれを神に捧げました、そして、その間に彼らはそこに神の存在を感じたという説明がありました。

それ以来、神はモーセを通してイスラエル人に、彼らが神を礼拝したり、十分の一を払ったり、彼らの焼かれた供え物やいけにえを捧げたりする時はいつでも、神の家に行くように命じられました。

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申命記 12:5
ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

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申命記 12:6
あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。

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申命記 12:7
その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

それは彼らが従わなければならない法律でした。彼らは、彼らの義務と神への誓いを果たすために、エルサレムのソロモンによって建てられた主の神殿までずっと行かなければなりませんでした。

しかし、彼らの一部がエルサレムから遠く離れて住んでいた人々もいたことで、彼らが提供するのが彼らの農産物の十分の一である場合、野菜や彼らの作物の果物や他の生鮮品など、彼らはそれらの品物を神殿まで持参する必要はありませんでした。代わりに、それらをお金に変換する必要があります。つまり、最初にそれらの品物を販売する必要があり、それらの商品の販売から調達する金額をエルサレムに持ち込む必要があります。

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申命記 14:24
もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、

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申命記 14:25
あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。

残念なことに、時が経つにつれ、イスラエル人は礼拝し、祈り、供え物を主に供えていた主の神殿または家の世話を怠りました。彼らの過失故に、主の家は捨てられて荒廃しました。

イスラエル人の過失による神の家の破壊という周囲の状況は、ハガイ1:4-9での神の宣告の背後にありました。

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ハガイ書 1:4
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。

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ハガイ書 1:5
今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

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ハガイ書 1:6
あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

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ハガイ書 1:7
万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

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ハガイ書 1:8
山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。

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ハガイ書 1:9
あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

主は、イスラエル人が実際に離れ離れになっているのを見ても気にならなかったので、神の家を当たり前のようなものだと見なした一方、それぞれの彼ら住居は細かく建設され、よく管理されてたことに対する神の憤りをイスラエル人に表明しました。

最終的に、イスラエルのこの神殿または宮は破壊されました。主イエス・キリストご自身は、マタイ24:15でその破壊を予言しました。

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マタイ 24:15
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

主イエス・キリストは、預言者ダニエルによって話された、聖地での忌まわしい荒廃について言及しました。この予言は、エルサレムの神殿の差し迫った破壊に言及していました。主イエスキリストによると、それは完全な破壊となり、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。 」と。

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マタイ 24:1
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

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マタイ 24:2
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

私たちの考えが「神を礼拝することは神殿や礼拝堂でしかできない」としたら、エルサレムの神殿で起こったことのように破壊されたとしたらどうでしょうか?

神殿が全滅したからといって、神を礼拝することができなくなったということですか?そうではないはずです。真実は、神殿や礼拝堂に行かなくても神を礼拝できることです。

主イエス・キリストがサマリア人の女性がヤコブの井戸にて彼女と会話したときに彼女に言及したことにより導かれましょう。

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ヨハネ 4:20
私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

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ヨハネ 4:21
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

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ヨハネ 4:22
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

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ヨハネ 4:23
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

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ヨハネ 4:24
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

主イエス・キリストはサマリヤ人の女性に、神を礼拝するために山やエルサレムに行く必要がない時が来ると告げられました。そして、真の礼拝者が霊と真理で御父を礼拝する時も来ること。主イエス・キリストが話していた「時」こと、サマリア人の女性と話している間、まさにその瞬間にその予言が始まりました。

つまり、その瞬間に、神を礼拝したい人は、自分の家でも神を礼拝できるので、礼拝堂や神殿などの指定された場所に行く必要が無くなります。

そして実際には、神を礼拝するとき、スタジアムやコロシアムのような大きな会場で人々を強制的に集める必要はありません。主イエス・キリストによると、神の御名で2人または3人が集まれば、神は彼らの真ん中におられる、と。ですから、その場所とそこに集まった人々の数に関係なく、彼らが神の御名で集まっている限り、神は彼らの真ん中におられます。

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マタイ 18:20
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

これは、彼らが主イエス・キリストの教えへの信仰のためにユダヤ人によって迫害されている間に、使徒たちによって満たされました。当時の状況は彼らの安全を保証することでは無かったので、神殿に行くのではなく、彼らは、彼らの集まりを窓や扉が閉ざされた彼らの家にて保持しただけでした。そして、確かに、主イエスは彼らの真ん中に来られました。

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ヨハネ 20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

状況が彼らと他の人々の安全を危うくしないならば、初期のクリスチャンは神殿に集まりました。しかし、状況が彼らの生活に脅威をもたらすならば、彼らは兄弟たちの家にだけ集まっていました。

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使徒 20:7
週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。

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使徒 20:8
私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。

これは、兄弟たちが神殿ではなく、家に集まり、使徒パウロの説教を聞いた時です。

主イエス・キリストが来られたとき、以前にイスラエル人によって信じられ、観察されていた多くのことを主キリストが修正して下さったことを理解する必要があります。それらの1つは、使徒パウロによって使徒17:24で言及されました。

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使徒 17:24
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

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上記の聖句で、使徒パウロは、神は天と地の主であり、世界とその中にあるすべての創造主でありため、神は人の手によって造られた神殿にとどまらないと仰せられました。しかし、マナロ氏のイグレシア・ニ・クリスト(INC)は、使徒パウロが宣言したことに同意しないようです。彼らの公式出版物で表明されているように、彼らは神の霊が礼拝堂や礼拝所に宿っていると信じているからです。

:英文:
We are summoned by the Lord God to serve Him in the Body or the Church of Christ. We have to worship Him in the house where His Spirits dwells, like the modern house of worship pictured above.

:翻訳:
私たちは主なる神に召され、からだまたはキリストの教会で彼に仕えます。私たちは、上の写真に写された現代の礼拝の家のように、彼の霊が住む家で彼を崇拝しなければなりません。

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聖書の神の御言葉を根拠として使用すると、マナロ氏のINCは、神の霊が礼拝の家に宿っていることを、彼らにとってどれほど壮大に見えても、かなり誤解していることは明らかです。

確かに、過去、特にイスラエル人の時代には、神の御霊が集まりに来られ、家や神殿に住まわれました。しかし、主イエス・キリストが来られたとき、集会はもはや神殿や礼拝所に限定されなくなりました。主イエス・キリストが来られた時、神権に変化があったことを忘れないでください。モーセから、今や神権を握っているのは主イエス・キリストです。ですから神権に変化があったので、法律にも変化がありました。

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ヘブライ 7:12
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、

それが、主イエス・キリストが初期のクリスチャンたちに、神を崇拝して集会を開催するための礼拝堂や寺院を建てるように指示したことを述べている節が聖書にない理由です。

神権が変更された時、契約も変更されました。

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ヘブライ 8:7
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

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ヘブライ 8:8
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。

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ヘブライ 8:9
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。

神は新しい契約を作りました、そして、この新しい契約は主キリストが地上に来られたときに主イエス・キリストによってもたらされました。しかし、純粋に肉体的な条例であったモーセの神権期間中の契約とは異なり、主イエス・キリストの神権の下の契約は、より霊的な側面にあります。

ですから、キリスト教の神権時代において、礼拝やその他の集会が開かれるべき場所はもはや問題ではありません。事実、1世紀後半のクリスチャンたちは兄弟の家にも集まりました。

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ローマ 16:3
キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

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ローマ 16:5
またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

プリスカとアクラは夫婦でした。二人とも神の従者でした。そして、彼らの家は教会の集まりの場として役立っていました。

ラオデキアの兄弟たちは、同様に別の兄弟の家に集まりました。

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コロサイ 4:15
どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。

クリスチャンたちは神殿や礼拝堂を建てるように命じられていません。何故なら、彼らは家の中や借りた場所でさえ集会を開くことができるからです。実際、キリストの使徒の間には、誰も神殿や礼拝堂を建てず、兄弟たちに建てるようにとも指示されませんでした。彼らは、主イエス・キリストが仰せられたように、真の礼拝者はもはや長い旅をして、神を礼拝するために指定された場所に行く必要がないと仰せられました。彼らは、霊と真理で父を礼拝するべきだからです。

主イエス・キリストの特定の布告が現在より適切であると言えます。特に、今時、人類全体が危機を経験しています。

汎流行があります。人々はウイルスの伝染を防ぐために自分の住居から出ることを思いとどまり、他の国では公共検疫と閉鎖が実施されています。

このような状況を考えると、礼拝堂や礼拝所に行くよりも、それぞれの家で神を礼拝するほうが賢明だと思います。

Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)に関係ある限り、閉鎖、公共検疫、政府による旅行制限にもかかわらず、私たちはまだまだ神を礼拝し、会衆の一定の集まりを行なうことができます。会員たちが安全であるそれぞれの住居にです。私たちは、現代の通信技術を使用して集まることができます。

このようにして、私たちは政府の政策を順守することができ、同時に主イエス・キリストが仰せられたこと・・・

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ヨハネ 4:23
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

を実現することができます。 アーメン!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

真の礼拝は教会の集まりに出席することを越えるもの

神を礼拝することは、霊と真理をもって神を礼拝することです。そして、霊と真理に主を礼拝することは、教会の集まりに出席すること、主の為に賛美歌を歌うこと、そして礼拝堂または礼拝の家の中で主の教えを聞くことだけに限定されていません。
これらの行為が神を礼拝し奉仕することの完全な意味を構成しない場合、どうすれば神を正しく礼拝し奉仕できるでしょうか。

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ローマ 12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

神を礼拝して仕える正しい方法は、私たちの体を生ける供え物として神に捧げることです。これは私たちの霊的な礼拝行為でもあります。

明らかに、クリスチャンに教えられている礼拝の種類は、旧約聖書のイスラエル人が実践していた礼拝の種類とはまったく異なります。当時は、神を礼拝する人々は、既に虐殺されていた牛、羊、子羊、山羊等を捧げなければなりませんでした。そして、それらの獣の血は神殿にまき散らされました。

しかし、キリスト教の神権時代において、私たちクリスチャンが神に供えるすべきものは私たち自身の体です。私たちの体は、私たちの生ける供え物と、神への合理的または霊的な礼拝としての役割を果たします。クリスチャンが神に捧げるすべきなのは金銭的な寄付だけではありません。私たちが神に捧げるべきであるもっと重要な供え物があり、それは私たち自身の体です。そうすることで、私たちは神を正しく礼拝することができます。

問題は、私たちの体を神に受け入れられる神聖な生ける犠牲にするにはどうすればよいかということです。

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ローマ 6:13
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

私たちは自分の体のそれぞれの部分を神の義の道具として使用し、不義や罪の道具として使用していないことを確認しなければなりません。私たちは、ヨブが自分の時代に行なったように、私たちの体を同胞のために善行に使う必要があります。

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ヨブ記 29:15
私は盲人の目となり、足なえの足となった。

つまり、苦痛を抱えている人々に救いの手を差し伸べる場合、または視覚障害者が行きたい場所にその人を導く、または案内するなどの身体障害者に対するサービスを提供する場合には私たちは既に神を礼拝することができます。つまり、体を使って他の人に仕える度に、自動的に神を礼拝しているのです。

しかし、例えば、指を使って銃の引き金を引いて人を殺したり、舌を使って他人を騙す場合や、妻や子どもを殴ったり平手打ちしたりする場合は、あなたは自分を不義の道具にしています。事実、あなたはサタンを喜ばせることをしているので、あなたはサタンに仕えていることになります。

私が指摘したいのは、例え、礼拝堂にいなくても、私たちは神にまだ礼拝し、仕えることができるということです。私たちは、家にいても、職場にいても、学校にいても、道通りにいても、他の場所にいても、神を礼拝し、仕えることができます。

使徒パウロによると、地球の創造主であり、神様である神には、人の手によって直接、仕えることができません。

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使徒 17:25
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

それにもかかわらず、私たちは、同胞のために義を行なうことにおいても、私たちの手だけでなく、全身を用いて神に霊的奉仕をすることができます。

今時、全世界は非常に困難な時期を経験しているので、今は私たちが神の義の道具になることができる非常に良い機会だと思います。確かに多くの人が物質的な助けを必要としていることは事実ですが、それでも多くの人が、聖書の神の御言葉からしか得られない祈りと慰めと安心の御言葉を必要としています。神の御助けがあれば、私たち自身なりに出来る少ししかないことでも、私たちが他の人にこれらのことを提供する器になることができると私は確信しています。アーメン。

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よく差別されているトランスジェンダー(性転換)の人々は神に受け入れられています


とあるトランスジェンダーから、私たちのテレビ番組を定期的に見ることで、神と主イエス・キリストの教えを理解することができたと言われました。そして時が来て、その人は神に仕えたい、私たちのほとんどのように救われたくて、神の教会の一部になりたいという熱心な欲望をその人の心に感じたのです。

しかし、その人の性同一性のために、その人は質問をしました。自分のようなトランスジェンダーがまだ神に受け入れてもらえるかどうか、そして自分が神の教会に入ることができるかどうかを尋ねてきました。

これらの否定的な考えは、トランスジェンダーである人々について、そしてLGBTQコミュニティのメンバー全体について、そのような人たちが「まっすぐな」男性と女性にならない限り、その人たち悪魔のもので、決して救われることができないとその人が他の宗教指導者や牧師から聞きました。。神に属すると主張する説教者の口から直接そのような声明を聞くと、LGBTQ人は自分の事を救済に値しない、相応しくない人だと思い込ませられました。

しかし、それらは説教者の単なる言葉であり、神の御言葉をほとんど理解していないと私はあの人に話しました。

聖書によると、神が望んでおられるのは、すべての人が救われることです。

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テモテ 一 2:4
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

節は「すべての人(英語版では all men)」と言っているのですが、それは人類全体を網羅しています。 「まっすぐな」男性と女性だけに限定されるものではありません。LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー、クィア)コミュニティやその他の性的自己同一性が含まれます。

神は、トランスジェンダーである人々を含むすべての人々に救いの機会を与えています-例えトランスジェンダーの人がたまたま手術や過去に何らかの医療処置を受けたとしても。主に、これはその人がまだキリスト教の教義を知らなかった頃、そしてその人がまだ真実の知識を持っていなかった頃にそれらのことを犯したことであり、その人のような人々は神の教会に居場所を持っています。

実際に、教会のとある会員がかつて私に自分がトランスジェンダーであることを告白したことがあります。その人は男性として生まれましたが、教会の会員になる何年も前に、その人の性器をその人の性同一性またはその人が内部で感じる性別に一致させるための手術を受けました。したがって、その人の男性の性器は取り除かれ、女性の性器に取って代わられました。

しかし、その人は主イエス・キリストの教義を受け入れ、過去の罪がすべて赦される聖なるバプテスマを受けた後、神の憐れみを受けました。それから、その人は新たに人生を始めました。その人は以前の生活様式から背を向け、その人は神と主イエス・キリストへの忠実な奉仕に人生を費やし始めました。「まっすぐな」人であるふりをせずに、その人が理解したクリスチャンの道徳的基準を厳密に守っていました。そして、神の御助けを得て、今でも信仰を堅持しています。

神は、思いやりがあって公正で、憐れみ深い方です。神は無知故の行為に対して誰にも責任を負わせません。また、使徒パウロも神の憐れみと思いやりを体験しました。

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テモテ 一 1:13
私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

使徒パウロは過去に重大な罪を犯しました。彼は初期のクリスチャンの冒涜者であり、迫害者でした。それにもかかわらず、彼は神から慈悲を得ました。彼はそれらすべてのことを「無意識のうちに不信仰故」に行なったので彼は赦されました。

自分が内面で感じる性別に対応する性同一性を提供した医療手続きに身を委ねたトランスジェンダーの人は、神の御言葉を理解する前の間にその人がそれらの事をやってしまった事ならば、神の憐れみを得ることができます。神の教会の管轄外。その人も「無知故」で使徒パウロが赦されたような事と同じ方法でまだ赦されます。

その人が手術を受けた場合、その人は、医者がその人の肉体に行なった変更を元に戻すことはで出来ませんし、その人はそれから取り除かれたものを復元することもできません。しかし、それは使徒パウロのように、その人がそれらの事を「無意識のうちに不信仰故」したので、救済からその人を完全に失格とはされません。

現代の多くの宗教団体が、すべての事に責任がなく、罪がないかのように、そしてすべての人が性同一性の問題を抱えていないかのように、見せかけと偽善に満ちていることをどうしょうもないのです。例えば、偽牧師や詐称者は、同性愛者や同性愛者を組織で受け入れません。何故なら、その者たちによれば、第三の性に属する人々は神ではなく悪魔によって創造されたからだそうです。

そのような残酷な宣言は、神の御心についてのその者の無知さを示​​すだけです。聖書にはそれらの主張の根拠はありません。先に引用した節によると、神はすべての人が救われて真理の知識に来ることを望んでいるので、実際には、それは聖書の言う事と逆です。

聖書は、人の性別を問わず、主イエス・キリストの教えに身を委ねた瞬間、その人は新しい人になることを教えています。

その人は、神と主イエス・キリストの教えを学び、それらを受け入れた後に神の教会の管轄に身を委ねると、その人がこれまでやっていたことをやるべきではないことを理解しなければなりません。つまり、その人はもはや同性の関係に従事するべきではない、その人はもう化粧を身に着けるべきではない、その人は品のない装飾をすべきではなく、そして、その人はもはや世俗的な喜びでその人の人生を費やすべきではありません。その代わりに、その人は主イエス・キリストの教えに従って生活を始めるべきです。

キリストに属する人は、誰もが今や新しく造られた者として見なされます。

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コリント 二 5:17
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

そんな人たちの過去は下記の通りです

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コリント 一 6:9
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、

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コリント 一 6:10
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

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コリント 一 6:11
あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

ですから、トランスジェンダーの人が現在キリストに属するなら、その人は自動的に新しく造られた者になります。その人は今やその人の目に見える明確な,な変化があるという意味で新しく造られた者であると考えられています。必ずしも、人の外見や性同一性ではなく、その人の生き方についてです。その人はもう酒を吸ったり飲んだりせず、バーやカジノに行くことも、乱暴に話す・行動することもありません。その人の生き方は現在、キリストの教えによって懲らしめられ、主イエス・キリストの人格に倣ってその人の全体が形作られているため、その人は更生しました。トランスジェンダーの人ではあるが、この「新しく造られた者」は神に受け入れてもらえられない、と言う者はあえて愚か者だけだろう。

神は、トランスジェンダーである人々やLGBTQコミュニティの他の残りの人々を含む、神に戻る人々全員を歓迎してくださいます。その場合、その人たちは神の教会でも歓迎されます。そこでその人たちは幸せでゲイのクリスチャンになることができます。

人気なタガログ語の諺が聖書的な変身を得る


人気なタガログ語の諺「Nasa Dios ang awa、nasa tao ang gawa」(慈悲は神にあり、行動は人にある)は、人間が神から慈悲を得る前には、まず働かなければならないことを意味します。

申し訳ありませんが、聖書の御言葉ではないので、その諺には完全には従いません。その代わりに、働くのは神であり、慈悲を与えるのも神であると私たちは信じるべきです。

まず第一に、あなたが働いているとき、あなたは慈悲に値しません。あなたは報酬または補償に値します。慈悲というのは、そのためにあなたが働かずとも得るものです。

神の慈悲を得るには、まず悔い改める必要があります。その後、神はその人の内で働かれるでしょう。働くのは神です。

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コリント 一 12:6
働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。

私たち人間はすべての善行を実行不可能ですが、私たち全員の中で働いているのは神です。

神は人の中で様々な働きをされます。人が心の中で善行をしたいという願望を感じ始めたら、それは神がその人の中で働いておられていることの証明、または現われです。

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フィリピ 2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

神は、人々が善行をしたいという願望を与えます。今日、多くの人がやりたいことは、自分のためになることだけです。他人のために善行をすることは、常に自然的に、または自然に人の心から湧き出る訳ではないので、他人のために善行をしたいという願望で心を神が満たして下さいます。

繰り返しますが、慈悲といのは私たちが働いたからではなく、悔い改めた時に神が私たちを赦し、受け入れてくださったからです。神は私たちの内で働いておられるので、私たちは心に善行をしたいという願いを感じます。そして、神は私たちに善行をするように勧めるだけではありません—私たちがやりたいと願っている善行を成し遂げるのを助けるでしょう。神無しでは何もできないからです。

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フィリピ 2:13
神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

ですから、働くのは人間だと言うのは聖書的ではありません。働くのは神であり、慈悲を与えるのも神です。人間は自分で何もできない。人間は神の御助けを必要としています。生命、力、資源、善を行う意志でさえ人間を支えているのは神です。実際、人間は一般的に、神の摂理に依存しています。

神は慈悲深い方です。実際には、仕える子にも慈悲深い普通の人間の父親よりも神は更にに慈悲深い方です。

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マラキ書 3:17
「彼らは、わたしのものとなる。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。

神が人間から求めておられている唯一のことは、人間が神の元へ戻り、神の条例を守ることです。

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マラキ書 3:7
あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。・・万軍の主は仰せられる。・・しかし、あなたがたは、『どのようにして、私たちは帰ろうか。』と言う。

私たちは悔い改め、神の元に戻り、神の御言葉を受け入れる必要があります。私たちが神の御言葉を受け入れたとき、それから初めて、私たちが利益を得るためにすべきこと-(神様の慈悲の方ではなく)-神からの報酬のために取り組むことが出来るようになります。神の慈悲に値するように努力するのではなく、神の報いに値するように努力すべきであることを忘れないでください。

神が人間の中で働いておられてることのもう一つの現われは、人間が過去に犯した罪を悔やみ、悔い改めた時です。

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ローマ 2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。

人間を悔い改めに導くのは神の良さと優雅さです。

また、あなたが犯した罪を悔い改めたと感じる時、それはまた、あなたが神無しでは無力であると知り、あなたが服従するために自分を差し出す宛てとなる「強力な存在」を認めていることを意味します。

私たちの誠実な悔い改めは、神の慈悲に値します。それは、私たちにとって非常に重要です。覚えておいてください、ニネベの人々は彼らの違反を心から悔い改めたので、神の慈悲に値しました。神は、ご自身が持って来るつもりだった災いからニネベの人々を救いました。

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ヨナ書 3:10
神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

あの時までに、ニネベの人々は誤りへ導かれていました。彼らは、ソドムとゴモラの人々のように暴力と性犯罪に従事していました。

彼らに降りそうな差し迫った破滅について警告するために、彼らの元へ神が預言者ヨナを遣わされたのはそのためです。預言者の言葉を聞くと、ニネベの人々はすぐに悔い改めました。彼らは悪事から離れ、断食し、熱心に祈りました。

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ヨナ書 3:5
そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。

ソドムとゴモラの人々は非常に罪深い生活を続けました。それ故、彼らには硫黄と火が降り注いだのです。

しかし、彼らとは異なり、ニネベの人々は神を認め、悔い改め、邪悪から背を向けたので、神の罰から免れました。

私たちも神の慈悲に値するように、この世代の人々がニネベの人々がしたことをするように願っています。今日の世界を悩ます汎流行からも免れるためです。

働くのは神です。慈悲を与えるのも神です。そして、神の慈悲によって私たちは救われることが出来ます。

キリストの来臨と裁きの日についての誤解に光を当てること


現在のほとんどすべての宗教に共通していることが1つあるとすれば、「主イエスキリストが戻られた時、それは主のsecond coming(二度目の来臨)であり、その日は既に裁きの日になる。」と彼らは信じています。申し訳ありませんが、そうは思いません。

まず第一に、聖書には「second coming(二度目の来臨)」という言葉はありません。 「second coming(二度目の来臨)」への信念は、ラムサ氏の無謀で誤った聖書の翻訳の結果でした。実際、現在に利用可能な聖書の多数の翻訳のうち、ラムサ翻訳版だけが「second coming(二度目の来臨)」という用語を使用しました。他のすべての翻訳は使用しませんでした。残念なことに、ラムサ氏は多くの宗教に影響を与え、誤解を与えました。そのため、現在多くの人々が、キリストの地上への来臨が主のsecond coming(二度目の来臨)であると考えています。

主イエス・キリストが再び来ることは確かですが、それは主のsecond coming(二度目の来臨)でも、すぐに裁きの日になることでもありません。キリストは再び来られます。主が戻られた時、主は死者全員ではなく、主のうちにいた人たち、つまり主の教えを成就して死んだ人たちだけを蘇らされます。これは、第一の復活と呼ばれています。しかし、地上でのキリストの千年間の支配がまだ残っているため、それはまだ最後の裁きの日にはなりません。

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黙示録 20:6
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。

第一の死者の復活は、キリストが戻られた時に実現されます。第一の復活の一部となる人々は、神とキリストにあっての祭司になり、彼らは地上で主と共に千年の間支配します。

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コリント 一 15:24
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。

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コリント 一 15:25
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

千年の間、キリストはすべての支配、すべての権威、すべての力を従わさせなければなりません。。主はすべての悪を打ち負かします。

千年の間の後に最後の裁きの日が来ます。キリストが裁きをなされます。

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コリント 二 5:10
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

私たちは主の来臨に備えなければなりません。祝福されたと見なされる人々の中にいるためには、主が来られたとき、私たちが御心を行なっていることを主に見られることが非常に重要です。

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マタイ 24:46
主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

主イエス・キリストが天国に昇られる前に、主は使徒たちに、すべての国々に主の戒めを教えるという特定な指示を残しました。

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マタイ 28:20
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

キリストは、私たちに主のすべての戒めを守ってほしいと望んでおられます。イエスが戻られた時に私たちが主の教えと戒めを満たしていることを見られたら、私たちは祝福された者と見なされます。

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黙示録 22:12
「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。

そうです。キリストは再び来られます。しかし、繰り返しになりますが、主は既に2回以上も地球に来られていましたので、主のsecond coming(二度目の来臨)にはなりません。例えば、イスラエル人たちが荒野にいた間、主は彼らを追っていて、岩の形で主はご自身を彼らに示しました。

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コリント 一 10:3
みな同じ御霊の食べ物を食べ、

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コリント 一 10:4
みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

主イエス・キリストは、イスラエル人たちに続く岩であり、荒野にいる間に彼らに水を飲ませる岩でした。つまり、主が肉体で現れる前に、主は既に(岩の形で)地上に来ていました。

主が地上に来られたもう一つの例は、私たちを罪から贖うために人間の形を取っておられ、マリアが主を産んだ時でした。

なので、主が再び次に来られる時、それは主のsecond coming(二度目の来臨)ではありません。

実際、私が引用した例に加えて、キリストは既に何度も地球に降りては、天国に昇っていたのです。

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箴言 30:4
だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。

私たち全員が知っているように、すべてのものは神と神の御子によって創造されました。そして、創造の間、キリストは地上に降りたり、天に昇られたりしました。ですから、キリストが次に再臨された時、それはキリストのsecond coming(二度目の来臨)ではないという意味です。

主イエス・キリストは再び来られます。それは間違いありません。しかし、それが主の3度目、4度目、または5度目の「来臨」かどうかについては、正確には分かりません。しかし、一つ確かなことは、それが主のsecond coming(二度目の来臨)でも、最後の裁きの日にもならないということです。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

愛することは、他人を安全に生きるようにさせること


新型コロナウィルスの汎流行が人類に脅威を与え続けている今、全世界は全く無力です。専門家はこの疾患に適切な薬とワクチンを見つけることを目的とした臨床試験と研究の実施を決して止めませんが、世界の健康危機は少なくとも近い将来までにはまだに終わらないようです。

人間ができることには限界があるので、私たちが今必要としているのは神の介入であることは間違いありません。人間の制御に及ばないものがありますが、それらは神によって制御可能です。そして、人間の能力を超えているものがありますが、それらは全能の神によって簡単に処理できます。

数え切れないほどの機会に、神は信者と非信者の両方にご自身の全能さと御力を証明しました。例えば、モーセの時代には、多くの驚くべき神の行ないがエジプト人によって目撃されました。パロがイスラエル人を解放することを拒否したとき、神はパロの家臣を含むすべてのエジプト人の家庭を満たしたエジプトの国にアブの群れを送りました。パロはモーセに呼びかけ、アブたちを追い払うよう神に懇願するようにモーセに要求しました。モーセはパロがイスラエル人をすぐに解放するという条件に同意しました。

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出エジプト記 8:31
主はモーセの願ったとおりにされたので、あぶはパロとその家臣およびその民から離れた。一匹も残らなかった。

当時のエジプトの国がどれほど強力だったかを考えると、それでもアブの群れを追い払うことはできませんでした。しかし、モーセが神に祈ったとき、すべてのアブたちは追い払われ、アブは一匹も残されませんでした。

アブは神の創造物です。すべての生き物の創造者として、神はそれらのすべてを完全操作する御力を持っておられます。このように、アブたちだけではなく、パロがイスラエル人を解放するという自分の約束を破り続けたことでエジプトのすべての土地の上に上がったイナゴたちさえ追い払った。

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出エジプト記 10:19
すると、主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。

神からの単純な命令で、強力な西風が吹き、イナゴを追い払い、葦の海に追いやりました。

間違いなく、神の無限の御力によって、神は今の世界に蔓延するこの新型コロナウイルスに対しても同じことをすることができます。神はウィルスを追い払い、おそらく別の惑星に投げ込むこともできます。どうでしょう?すべてのウイルスは、神の御力に抵抗するには小さすぎます。

但し、私たちが最初に、私たちの違反に対する真の悔い改めと、神の教えを受け入れ、守る意欲を神に示しましょう。そして、神は私たちの誠実さを見て、確実に私たちに憐れみをお与え、私たちをこの疫病から救って下さいます。。

悪病と疫病は人間の罪深さの結果として起こります。だからこそ、私たちの誠実な悔い改めは、この疫病を終わらせる上で神が考慮すべき要因となり得るのです。ニネベの人々がしたことだけを倣えば、疑いもなく、彼らがしたように私たちも神の憐れみに値するでしょう。

彼らが預言者ヨナから神が彼らを滅ぼすことを知ったとき、ニネベの人々は時間を無駄にしませんでした—彼らは彼らの不正を悔い改め、断食し、彼らの邪悪な道を背き、熱心に神に祈りました。神がニネベの人々がしたことを王から市民の最も低い人までを見たとき、神は彼らに降りかかるはずの破壊を差し控えたのです。それで、ニネベ全体が救われました。

これが、私が絶え間なく祈るように皆に常に訴えかけている理由です。神が最強であるため、神の憐れみを呼び起こしてみましょう。神だけがこの汎流行から私たちを救うことができます。神だけが、致命的なコロナウイルスを追い払い、根絶する御力さえ持っています。

現在、死者の数は依然として数千人にのぼり、新型コロナウィルスで亡くなった人々が適切な埋葬を受けられなくなった場所もあります。

実際、そのようなことが起こったのはこれが初めてではありません。聖書でさえ、死亡後にもはや埋葬されなくなった人々がいて、彼らの愛する人は彼らの死を嘆き悲しむ機会が与えられなかったと述べています。

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エレミヤ書 25:32
万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。

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エレミヤ書 25:33
その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。』」

人類は、以前の疫病の間、具体的にはスペインのインフルエンザと腺ペストの襲撃中に、伝統的な葬儀や埋葬式を行わずに死者全員を集団墓地に葬ったときに、これらを既に経験していました。同様に、家族は亡くなった愛する人たちを嘆き悲しむ機会を与えられませんでした。そして、私たちの世代にも同じことが起こる可能性が非常に高いのです。

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コヘレトの言葉 3:15
今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。

過去に起こったことは再び起こります—過去に起こった善悪が人々に再び起こる可能性があります。それはすべて、私たちの創造主に対する態度と私たちが神をどのように考えているかにかかっています。私たちが熱心で神に反抗していると、悪いことが繰り返されます。しかし、私たちが神の元に戻って、私たちの真の悔い改めと神に従いたいという願いを神に示したなら、良いことが繰り返されます。

今の世界は、新型コロナウィルスと戦うことができるワクチンを見つけることに絶望的であることがわかります。しかし、まだ何も見つからない間に私たちにできる最善のことは、宗教を除けば、政府によって課された健康手順を遵守し、祈ることです。つまり、私たちのこの存在物語の非常に困難な章を克服できるよう、神の御心でこの汎流行を生き抜くことができるように祈りましょう。しかし、神の御心がそうでなければ、私たちの人生は神の御手にかかっているので、私たちは心からそれを受け入れるべきです。その上、全能の神はご自身のしもべたちのために何が良いかを知っておられますから。。

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ローマ 8:28
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

神は、神を愛する人のためにすべてのものを変えることができます。神を愛することは神の戒めに従うことであり、その一つは同胞を愛することです。

多くの国では、新型コロナウィルスで亡くなったすべての人を火葬することを義務付けています。おそらく、亡くなった愛する人を火葬することを誰もが望んでいるわけではありませんが、それでも伝染を止めるのを助かるための一つの方法であるので、人々は健康専門家の指示に屈する必要があります。人々が「それぞれの伝統的な埋葬の儀式を遵守せよ」主張するならば、死者を弔う人々とそれぞれの家族であろうすべての人々が感染するという大きな可能性があるからです。

実際、火葬や死体の焼却は、旧約聖書の時代に遡ります。しかし、それは別の状況の下で行なわれました。今日、新型コロナウィルスの犠牲者は、イスラエル人の時代にウイルスがより多くの人々に感染するのを防ぐために火葬されました。生きたまま火で焼かれる者たちは、卑劣な行為または邪悪な行為を犯した人々に対する神の罰でした。

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レビ記 20:14
人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。彼も彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。

配偶者とその子の両方を娶る人は、神にとっては忌まわしいです。したがって、その三人は火で焼かれる死刑で処されます。

この種の罰を与えることは、神がイスラエルの人々に忌まわしい行動を取ることを抑止し、彼らが神を恐れるようにするための方法でした。

しかし、すべての死者が火で焼かれて死んだ訳ではありません。アサ王にしたように死者の遺体が埋葬された事例もあった。

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歴代誌下 16:12
それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

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歴代誌下 16:14
そこで、人々は、彼が自分のためにダビデの町に掘っておいた墓に彼を葬り、香料の混合法にしたがって作ったかおりの高い香油や香料に満ちたふしどに彼を横たえた。そして、彼のために非常にたくさんの香をたいた。

主イエス・キリストが復活させたラザロも墓に葬られました。

現在の状況では、新型コロナウィルスが原因で亡くなった人々の火葬は、論理的で高貴なことのようです。あなたが他の人の福祉を気にかけ、本当に彼らを愛しているなら、あなたは多くの人の安全のために個人的な感情を犠牲にするでしょう。

それには聖書の根拠があります。

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コリント 一 13:3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

同胞への愛情により、他人に感染させたくないために死体を火葬にさせる場合、あなたは非常に英雄的なことをしています。それは実際、愛情の仕草です。

自分たちの信仰と原論に堪えたことで生きたまま火に焼かれる死刑で死亡した人々もいました。彼らがカトリック信仰を受け入れることを拒否したために火に焼かれる死刑30万人、主にクリスチャンたちに起こったことのように。

実際、教える皇ヨハネ・パウロ2世が死ぬ前に、彼は、カトリック教会がそれらの人々に対して犯した残酷さについての赦しを懇願しました。 Foreign Post, March 16-20, 2000; Volume 8, No. 370. (2000年3月16日〜20日、外国郵便。第8巻、370号)に掲載されました。


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:画像の英文の日本語訳:
私たちをお赦してください。バチカン市—ローマ教皇教会の歴史において前例の無かった公の告白の中で、聖ピーター大聖堂の十字架像の前で悔い改めて抱擁した教皇ヨハネ・パウロ2世は、過去2000年間にわたる教会の罪に対すの赦しを日曜日に求めました。教皇は、特に十字軍と異端審問で火に焼かれる死刑にされた30万人に言及しました。

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カトリック教会に反対した人々、偽りの神々や偶像を崇拝したくない人々は異端者と見なされました。したがって、彼らは「聖なる異端審問」と呼ばれるものによって危機に瀕して焼かれました。

ですが、「死体」の火葬自体には特に問題はありません。特に、生きてる他人への愛情のために死体を火葬している場合はそうです。死の際になってもなお、愛情故に同胞のために何かをすることができました。そして、あなたは彼らを愛しているから、彼らに感染してほしくない。

他人への愛の重要性をさらに強調するために、コリント一13:3 もう一度引用させてください

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コリント 一 13:3
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

あなたが愛情を持っていれば、他人が安全に生きるようにさせます。

免責事項

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汎流行によって打ち明けられた偽宗教の指導者の偽善


確かに、自宅待機は新型コロナウィルスの拡散に対する一つの効果的な対策です。しかし、多くの市民は、それぞれの家族の生活必要品、特に日常生活の食糧を心配しているため、危険度にも拘わらずに外出を余儀なくされています。

真実、恵まれない同胞たちを助けるために私たちはみんな手を組むのなら、誰も飢えないでしょう。空腹で死ぬ人はいません。

Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)では、封鎖中と公共検疫が引き起こされている中で多くの人々が経験している厳しい試練に気づいています。ですから、謙虚ながらも私たちの方法で、兄弟姉妹だけでなく、同胞にも食糧や医薬品などの本質的な生活用品を提供するために最善を尽くしています。また、健康に関する問題に対応する24時間年中無休のデジタル・クリニックも設置しています。

この世界的な健康危機では、政府の負担を軽減し、同胞の苦難を軽減するために、あるいは少なくとも、様々な宗教団体のそれぞれの会員や信者たちだけのことなら、様々な宗教団体によって多くのことはできます。これは、様々な宗教団体の指導者らは、自分らの会員や信者たちの福祉を本当に気に掛け、彼らが自分らの会員や信者たちから金銭的寄付を集めるだけではないこと自分らの会員や信者たちに示すことができる時期です。様々な宗教団体の指導者らはいつでも自分らの会員や信者たちの日々の生活に必要なものを提供することができるはずです。

しかし、物質的なものを与えることは別として、これはまた、使徒やキリスト自身であると自己主張する宗教指導者らは、彼ら自身の要塞から出て、宗教指導者らが主張している「自分が持っている超能力」を使い、この疫病を止めて、病院やその他の医療施設で生きるために必死で闘っている人々を癒すのに最適な時期でもありますし、彼らが「本物(の聴力者)であって単に悪用者(利益だけ欲しい)のではないことを人々に証明する機会です。

彼らが本当の使徒・本当のキリストであるならば、病気を治してウイルスを根絶することは、彼らにとってとても簡単なはずです。しかし、なぜ彼らは何もしていないのでしょう?彼らは、苦しんで死ぬ人々を気にしないのでしょうか?なぜ彼らは、聴覚障害者や新型コロナウィルス感染症の患者の悩みを知らないフリをするのでしょうか?彼らの沈黙と不作為は、彼らが本当のキリストと本当の使徒ではなく、偽のキリストと偽の使徒であることを意味するだけです。それは、彼らが本当に力を全く持っていないことを意味するだけなのです—彼らは普通の人々のように無力であり、彼ら自身がこの致命的なウイルスを恐れています。そして、感染するのを恐れて、彼らは、もはや自分たちの避難所から出ることはありません。

これらの高慢な説教者や宗教指導者が嘘つきの集まりであることが明確に分かります。彼らは、自分らが不思議な行為を実行する能力があることや、彼らが天使に命令を与えることができること等を行うことができることを自慢しています。そこでは、彼らの大邸宅と宮殿で!彼らは何をしてくれましたか?......!何もない!

例えば、「任命された!」と主張する一人の宗教指導者さん、つまり自己任命と言いますが、「地震を止める!」など、非常に多くのことを誇ったとある宗教指導者さんがいました。しかし、彼は今どこにいて、彼は何をしてくれましたか?彼が本当に地震を止めることができれば、このウイルスが更に広がるのを簡単に止めることができます。しかし、なぜ彼には出来ないのですか?それは、彼が偽りのキリストだからです!そして、彼が自慢するのは妄想・妄言の他でない。

病人に手をかざすだけで終末期の治癒もできると主張する牧師や司祭はどうでしょうか。彼らもどこですか?廊下や回廊にも新型コロナウィルス感染症の患者がいる病院に行かないのですか?この健康危機が始まってから半年以上が経過し、多くの命が失われましたが、そのうちの治癒力を持っていると主張していた牧師や司祭も出てきて、人々に手を貸すボランティアを一人も誰もしていません。どうして?.....彼らは全員、偽の治癒者であり、信仰の治癒者では無いからです!

明らかに、現代の宗教指導者らでさえ、この汎流行に動揺し、恐怖に陥っています。したがって、彼らは彼らの本拠地で恐怖で畏縮しているでしょう。

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エレミヤ書 51:30
バビロンの勇士たちは戦いをやめて、とりでの中にすわり込み、彼らの力も干からびて、女のようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。

この汎流行が主イエス・キリストと使徒たちの時代に起こったならば、彼らは本当に病気を癒す力を持っているので、感染した人たち全員に手を差し伸べ、人々を癒すために、人々の所へ間違いなく向かいます。

本当のキリストがまだ地上にいらっしゃった時代に、主はあらゆる種類の病気を癒してくださりました。主は、死者を復活させました。同じことが実際の使徒たちにも当てはまりました。

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マタイ 10:1
イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

使徒たちは同様に、例外なく、すべての病気や疫病を癒す力を神から与えられました—これは人々を癒せる対象には新型コロナウィルスも含まれていたことを意味します。本当のキリストのように使徒たちもまた使者を復活させることが出来て、現代に増殖した偽のキリストや偽の使徒たちとは異なります。

しかし、Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)の私たちの誰も、私たちが使徒である、または私たちがキリストであると主張していません。また、病気を癒す力があると主張したこともありません。私たちの一人が病気になった時は、私たちはいつでも神に祈ります。私たちは神の憐れみを懇願します。私たちの人生は神の御手にあると信じているので、私たちが元気になった時は私たちを癒して下さったのは神であったことを認めています。

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申命記 32:39
今、見よ。わたしこそ、それなのだ。わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出せる者はいない。

このような危険な時代において、私たちの唯一の希望は神の憐れみです。私たちが頼ることが出来る者は他に誰もいないので、神の憐れみをいつも祈りましょう。神の慈悲によって、そして、神の御心に反しないのならば、私たちはこの世界的な健康危機を乗り越えることができます。

今、神を信じない人でも、神の御力・強大な力を感じることができます。神が疫病を遣わした時、その衝撃は全世界が実感します。

今起こっていることで、私は本当にどうしても、ヨハネに与えられた啓示の一つを思い出すしかありませんでした。

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黙示録 6:8
私は見た。見よ。青ざめた馬であった。これに乗っている者の名は死といい、そのあとにはハデスがつき従った。彼らに地上の四分の一を剣とききんと死病と地上の獣によって殺す権威が与えられた。

青ざめた馬に乗った者には、剣または戦争で、飢饉、疫病や死病、地球の野獣などという様々手段で、地上の四分の一を殺す力が与えられました。

現在、人類を攻撃しているウイルスは、不潔で悪辣な野生動物ののコウモリ、ヘビ、センザンコウから来たと言われています。コウモリにあったウイルスがヘビにあったウイルスと合併し、ヘビに現在存在するこのハイブリッド・ウイルス(雑種)が更にセンザンコウのウイルスと合併した可能性があります。それらの動物はすべて、野生動物なのです。彼らは、家畜化されてはいけない。そして、それらは同じ場所に置かれるべきではありません。残念ながら、それらはすべて中国の武漢市の一つの市場で入手可能で、そこでは並外れた強さを持つ新しいコロナウイルス、新型コロナウィルスが開発されました。そして、この新型コロナウィルスは、突然変異が起こるまでに何年もかかる通常のウイルスとは異なり、非常に高速・突然変異します。

私は今の世の中で起こっていることを熱心に観察しています。その後、黙示録6:8で言及されている状況を参照します。この現在の疫病は別として、至る所で戦争と争いがあり、国家と国家の間及び、国家内で見られます。人々は飢えて、不安なのです。私たちが今経験しているのが、既に青ざめた馬に乗った者によって、もたらされた疫病であるならば、その者が地上の四分の一を殺す力を与えられたため、それは人命の面で大きな損失を意味します。つまり、今の世界人口が約80億人であれば、約20億人の死を意味します。

私たちは、これが青ざめた馬に乗った者がまだ行なっているのではないことを望み、祈ることしかできません。しかし、もちろんそれが神の御心であるならば、私たちはそれに反対しません。そもそも、私たち全員がいつか死ぬことを命じられていることを知っています。

私たちの唯一の望みは、神が私たちに機会を与えている間、福音を説教し続けることです—人々に神への信仰と恐れを発達させるように説得し、同胞を愛するように教え、神から与えられた人生を有意義に過ごすように人々を鼓舞し、そして、最終的に、人々が救済に相応になるために神に仕えるように導きます。

神が私たちを御助け、私たち全員を憐れんでくださいますように!神が病人を癒してくださいますように。神が私たちの土地を癒してくださいますように。


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