キリストとの「個人的な関係」?ご容赦を。それは、まがい物だ!



使徒パウロがガラテヤ人への手紙第1章10~11節で書いたことは、私が説教を始めてから今まで私が従った指導原則でした。

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ガラテヤ 1:10
いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

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ガラテヤ 1:11
兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。

使徒パウロが説教した福音は人を追いかけたものではなかったので、人を喜ばせるためのものではなかったと思います。人々を喜ばせ、彼らの承認を得ることは、説教するときはいつでもパウロの主な関心事にはなりませんでした。キリストのしもべとして、彼は福音をできるだけ忠実に説教するという、彼の任務を遂行することにもっと関心を持っていました。

そして、それはまさに私が神の御助けを借りてやろうとしていることです。私の発言は喜ばしくもなく、他の人の耳にも甘く聞こえないかもしれませんが、私が言っていることはすべて、聖書に書かれている主イエス・キリストの教えに基づいていることは確かです。

確かに、主イエス・キリストの教えは、人を喜ばせることを目的としていません。実際、それらはどういうわけか、人間の考え方、生き方、そして原則とは対照的です。

しかし、使徒パウロのように、私の言質は人々を喜ばせることではなく、福音を告げたり、主イエスの教え、またその一部に反する他の宗教の信念や実践を明らかにするなど、私の主、キリストを喜ばせることをすることです。

その一例は、キリストとのいわゆる個人的な関係を持つことについてのさまざまなボーンアゲイン団体の教えです。率直に言ってみましょう。この教えは、使徒たちによって教えられた主イエス・キリストの福音の一部ではありません。そして、聖書には「キリストとの個人的な関係」のようなものはありません。

「人間関係」の意味を理解すれば、私たちの時代には、キリストはもう地球上にいないので、誰もがキリストと個人的な関係を築くことはほとんどあり得ないことに気付くでしょう。主は天国にいます。人々が主と話し、主と個人的に交流することができた時代は終わりました。

しかし、キリストはもはや肉体的に存在していませんが、それは私たちがもはや主とのつながりや関係を持つことができないという意味ではありません。私たちはまだできますが、間接的な方法でのみ可能であり、個人的な方法ではありません。

聖書は、ある人がキリストと個人的に接したり、付き合ったりする機会がなくても、その人がキリストと個人的な関係を持つことを不可能にしているとしても、その人はまだ成長できるかもしれないことを証明する特定の場面を引用しました。キリストとのつながりや関係であり、特定の規定の下でまだ救われるかもしれません。これは、マタイ第25章32~46節が言っていることです。

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マタイ 25:32
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

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マタイ 25:33
羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

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マタイ 25:34
そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

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マタイ 25:35
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、

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マタイ 25:36
わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

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マタイ 25:37
すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。

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マタイ 25:38
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。

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マタイ 25:39
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

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マタイ 25:40
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

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マタイ 25:41
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。

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マタイ 25:42
おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

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マタイ 25:43
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

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マタイ 25:44
そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』

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マタイ 25:45
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

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マタイ 25:46
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

これらの聖句は、キリストと個人的な関係を持つことは人間の救済の必要条件ではないことを私たちに示しています。ボーンアゲイン団体が話している「キリストとの個人的な関係」が、ないにもかかわらず、神の御国を受け継ぐ特権を与えられる人々がいます。

上記の聖句に見られるように、それらの人々は、キリストに直接、会ったり、見たりしたことがなかったので、彼らがキリストに善行をしたことにさえ気づいていませんでした。しかし、人生のある時点で、彼らは、知らないうちにキリストの兄弟の一人である空腹で喉が渇いた人に、何か食べるものと飲むものを与えました。そして、その単純な親切な行為は、主イエス・キリストとの関係を確立するのにすでに十分です。

彼らとキリストの間で起こった個人的な出会いはありましたか?個人的な関係はありましたか?ありませんでした。彼らが弟子たちに、そして、少なくとも主の兄弟たちに示した親切と思いやりは、彼らと主イエス・キリストとの間の絆を築くのに十分でした。そして、彼らがしたことへの感謝の印として、裁きの日に、主イエス・キリストは彼らを天国の神の御国の相続人にされます。

繰り返しますが、キリストの肉体的な存在がなければ、あなたはキリストと個人的な関係を持つことはできません。しかし、個人的な方法ではありませんが、それでも主との関係を築くことは可能です。

代わりに、それはキリストを信じる同胞を愛し、世話をし、思いやりを持っていることによるものです。マタイ25:40で述べられているように、人がキリストの兄弟たちに与えるすべての親切な行為は、自動的に主に行われたこととして数えられます。主は、その間接的な受信者になります。そして、あなたの善行は、最終的には楽園にて「永遠の命」で報われるので、補償されないままになることはありません。

キリストとの個人的な関係?ご容赦を。聖書にはそのようなことはありません!重要なのは、主イエス・キリストの兄弟たちに対して私たちが行う善行です!

キリストの誕生の日付に関する聖書的な真実



キリスト教徒であると主張する事実上すべての宗教は、クリスマスの壮大なお祝いをします。彼らは、12月25日は主イエス・キリストが肉体で現われ、生まれた日であると信じています。

問題は、その信念には聖書的な根拠があるのか​​ということです。そして、キリストはこの日を祝うようにクリスチャンに命じておられたのでしょうか?

そもそも、12月25日やクリスマスを祝うことは福音書には書かれていません。それは、キリストの戒めではありません。ですから、それがキリストの戒めでなく、福音書に書かれていないのなら、クリスチャンはそれを守るべきではありません。

コリント 一 4:6によれば、

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コリント 一 4:6
さて、兄弟たち。以上、私は、私自身とアポロに当てはめて、あなたがたのために言って来ました。それは、あなたがたが、私たちの例によって、「書かれていることを越えない。」ことを学ぶため、そして、一方にくみし、他方に反対して高慢にならないためです。

聖書は、書かれていることを超えないようにと私たちに忠告しています。つまり、私たちの信仰は、聖書に書かれていることに固執する必要があります。それらが書かれていなく、単に人工の伝統であるならば、どれほど壮観で贅沢であっても、それらのことはクリスチャンによって取り込んだり、吸収されたりしてはなりません。そして、聖書はキリストの誕生日として12月25日について少しも言及していなかったので、それをあなたの信仰の一部にしないでください。この日付から大騒ぎをする世界中の何十億もの人々の一人になってはいけません。

キリストの生誕地であるベツレヘムは今月、雪に覆われているので、キリストは12月に生まれなかったと確信しています。


伝道者ルカの話によると、キリストが生まれる前夜、野原に羊飼いが放牧しながら羊を見守っていました。

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ルカ 2:7
男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

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ルカ 2:8
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

羊は野原で放牧していました。つまり、雪ではなく草など、餌を与えることができる草がありました。したがって、その時は12月ではなかったでしょう。

そもそも、雪の降る夜に彼の右心の羊飼いが群れを連れ出すことはありません。そうでなければ、彼らは凍死するでしょう—羊飼いと彼の群れの両方。

多くの人々が、キリストの実際の誕生が本当に知られていないことを認めているにもかかわらず、この発明されたカトリック教会の教えを信じ、受け入れ続けていることは非常に苛立たしいことです。これは、カトリック百科事典、第2巻、607ページに書かれています。


:通訳:
クリスマス
救い主の誕生の饗宴はクリスマス、キリストのミサと呼ばれています。それは12月25日に祝われ、典礼年の主要な祝宴の1つです。教会暦を参照してください。 主の実際の生年月日は不明であり、その記念は一般に、キリスト教時代の最初の3世紀の間、顕現の饗宴(顕現、1月6日)に含まれていました。 顕現を参照してください。
~~~~~

どうやら、彼らの祝賀の最初の日付は、ローマの教皇がそれを12月25日に変更するまで、1月6日でした。異教のローマ人が彼らの太陽神、偽りの神に敬意を表して彼らの饗宴を祝ったのと同じ日付です。

それはキリストへの大きな侮辱ではありませんか。偽りの神のごちそうと一致する日に、彼に敬意を表してごちそうを予定しています。さらに悪いことに、12月25日には、さまざまなプロテスタント団体や、いわゆる福音派やキリスト教の組織でさえ、クリスマス、つまりキリストの誕生を祝うためにカトリック教徒に加わっています。

実際、Manalo氏のIglesia ni Cristo(INCM)でさえ、クリスマスについてのカトリック教会の発明された物語を信じています。これは、彼らの指導者がカトリックの司祭とプロテスタントの牧師に対して、神のものではなく、サタンまたは悪魔のものであると言って彼らを否定したにもかかわらずです。この厳しい声明は、1961年8月に彼らの公式出版物であるパスゴ集に掲載されました。39ページには、次のように書かれています。


:通訳:
結論として、私たちはカトリックの司祭とプロテスタントの牧師がサタンの牧師であるという理由で彼らを否定すべきです。また、カトリック教会とさまざまなプロテスタント教会は、神のものではなく、サタンまたは悪魔のものであるため、拒否する必要があります。
~~~~~

皮肉なことに、マナロが悪魔であるという理由でカトリック教会とプロテスタント教会を放棄したにもかかわらず、彼らはクリスマスのお祝いに関連してカトリックとプロテスタントの慣習と信念を模倣し、採用しています。

下の写真は、INCM大臣の1人の結婚25周年を表しています。ただし、背景にはクリスマスの装飾とサンタクロースの写真があったことに注意してください。


1969年のパスゴ集の別の号では、16ページに、信仰の姉妹が販売している新しいドレスを宣伝する広告が掲載されました。


:通訳:
クリスマスが近づいています!今すぐお買い物!姉妹のピラール・フェルナンデス、ロザリンダ・ヤダン、エステル・ヤダンが新しい服を発売します!

No. D-E-F—オブレロの市場—マニラ、ブルメントリット
自宅の住所:—2722 Ave. Rizal
電話. 2-68-33
~~~~~
それだけでなく、彼らは三人の王も信じています。以下は、3人の王と比較した3人の信仰の兄弟の写真です。


:通訳:
彼らは、さまざまな場所から来て、地上で救い主の誕生を意味する星の光に従った東方の三博士ではありませんでしたが、3人の王のように、上の3人の男性も彼の教会を通してキリストの教えの光に従いました。
~~~~~

それは愚かさです。幼いイエスに贈り物を持ってきたのは三人の王であるという一般的な信念には真実がありません。王は一人で旅行するわけではないので、彼らが王であった可能性は非常に遠いです—援助も、警備員もいませんでしたよ。

更に重要なことに、聖書は彼らが思慮深い人々であると言っていましたが、彼らが何人であるかについては言及していませんでした。カトリック教徒は、幼いイエスに与えられた贈り物の種類に基づいて、香、金、没薬の3つであると推測しました。

しかし、何故、Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)は12月25日やクリスマスを祝わないのでしょうか。何故なら、キリストがその日に生まれたというのは真実ではないからです。その上、12月25日の日付は、ローマの教皇によって、太陽神に敬意を表して異教のローマ人によって開催された饗宴に対抗するか、おそらく競争するために割り当てられました。クリスチャンとして、私たちは異教や偶像崇拝に関連する汚染されたものには参加しません。

しかし、私たちがキリストのための饗宴を祝っていないという印象を受けないでください。それどころか、私たちは主イエス・キリストだけでなく、御父も称える多くの祝賀会を持っています。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

昔からの道は邪悪な者のためなのか?誰が話しているのか注意しましょう。



私たちのラジオ番組やテレビ番組の Ang Dating Daan 及び The Old Path (聖書に書かれている神と主イエス・キリストの教えを告げるMembers Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)(略MCGI)の放送部門)に人々が精通しているため、フィリピン国内の人々は、私たちの会衆を私たちの番組名称で呼んでいます。彼らにとって、MCGIはAng Dating Daanであり、その逆も同様です。

Ang Dating Daan という番組は、40年間放送され続けてきたため、多くの人気と差別を受け、この番組を後援することで多くのキョウダイたちが回心しました。私の説教に耳を傾ける人々には、必然的に聖書の理解と私たちの会衆の一員になりたいという願望を育みます。それで、人々はためらうことなく、それぞれの宗教を離れ、国際神教会に加わります。

そして、他の宗教団体は一貫して私たちの団体を支持する会員の流出を経験しているので、彼らの指導者と代表者は私自身と私たちの組織を傷つける努力に参加しました。人々が MCGI 及び Ang Dating Daan と彼らが呼んでいる私たちの団体に加入したい願望を落胆させようと他の宗教団体らは必死なのです。

彼らが私たちに対して使用していることの1つは、ヨブ記の中で、テマン人のエリファズの声明です。ヨブが非常に多くの苦しみの最中で、エリファズは彼に慰めと高揚の言葉を与える代わり、彼を非難しに来たと覚えておく必要があります。

ヨブ記 22:15にて、エリファズはヨブに問いかけた、

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ヨブ記 22:15
あなたは悪人が歩いたあの昔からの道を守っていこうとするのか。

それらはエリファズの言葉であり、神の御言葉ではないことに注意してください。エリファズはヨブに、邪悪な者たちに歩まれた昔からの道(タガログ語で「Ang dating daan」と訳されている)を歩き続けるかどうか尋ねていた。

エリファズの言葉から、ヨブは昔からの道、またはAng dating daan を歩んでいたことを推測できます。そうでなければ、エリファズはヨブにその質問をしなかったのです。しかし、ヨブは邪悪ではなかったことを心に留めておいてください。実際、神ご自身が彼を完全で、正しくて、神を恐れる者であり、悪を行う者ではないと説明しておられました。 (ヨブ1:8より)

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ヨブ記 1:8
主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

ヨブとエリファズの間で長い議論と推論が交わった後、神は怒りで次のとおりを仰せられました。

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ヨブ記 42:7
さて、主がこれらのことばをヨブに語られて後、主はテマン人エリファズに仰せられた。「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。

神は不機嫌になり、エリファズと彼の2人の友人が話した事柄に怒りが燃え上がりました。したがって、エリファズは神の御心に反することを語ったので、彼を神の敵と見なすことができます。

実際、昔からの道は邪悪な者たちによって歩まれてたというエリファズの非難は、ヨブにそこを歩くのをやめるように促したいからが理由ですが、エレミヤ書に書かれている神ご自身の宣言に反していることになります。

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エレミヤ書 6:16
主はこう仰せられる。「四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ。しかし、彼らは『そこを歩まない。』と言った。

非常に明確に、神にとって、昔からの道(または Ang dating daan)は悪くありません。実際、主はご自身の民に、そこを歩くようにさえ指示しておられました。何故なら、それは良い道があり、人々が自分たちの魂のために安らぎを見つける場所だからです。

また、昔からの道を歩く人は、神の指示に従う人であるため、邪悪ではありません。残念ながら、ヨブ22:15の文脈をほとんど理解していない私たちの批判者たちは、私たちに対してそれを使用しています。彼らは、神の敵であるエリファズの言葉を利用して、Ang dating daan(私たちの団体を指す)の一部である人々が邪悪であるように見せます。そんなの、大きな嘘です!

Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)、または多くの人からの呼称であるAng Dating Daanの会員たちは邪悪ではありません。実際のところ、私たちの兄弟たちは、柔和で、思いやりがあり、心が優しく、神を恐れることで知られており、彼らと取引した人々は、これらのことを証明することができます。

法廷の記録でさえ、バスケットボール等の試合中の口論という些細な理由で虐殺を行う他の宗教とは異なり、人殺しな会員はいないことを証明することができます。

フィリピン国内で設立された他の教会の一部の会員らが、バスケットボールの試合で対戦相手にしたことでした。彼らは、対戦相手たちが死ぬまで獣がする拷問を対戦相手たちに与え、そして、彼らの死体をパシッグ川に投棄した。実際、彼らの教会の指導者たちは、彼らを守るために彼らの資源と繋がりを利用しました。それにもかかわらず、最高裁判所は合理的な疑いにて、彼らを有罪と認定しました。
Supreme Court Reports Annotated Volume 339, August 28, 2000 People VS Abella
最高裁判所 注解報告 第339巻 2000年8月28日 国民 対 アベリア氏(加害者らの代表者)

私たち神の教会では、そのようなことをしません。私たちのキョウダイたちはクリスチャンの美徳についてよく教えられており、福音の説教を通して、私たちが行う公共サービスや慈善活動を通じて、すべての人に信仰、希望、愛を促進するという点で教会政権と一体となっています。

確かに、私には多くの批判者がいます。彼ら全員が私を倒したいと思っています。私の汚れのない福音の説教はそれぞれの組織に大混乱をもたらすので、彼らは皆私を黙らせたいと思っています。彼らの会員たちが私の放送を聞き始めた瞬間、彼らは、彼らの宗教から抜け出す方法を見つけるのを止まらないのですから。。

現在、彼らの聖戦とやらは、様々なSNSプラットフォームを使用して、私と私たちの団体の信用を傷つけることです。そのうちの一つは、私の説教の中では単に物語を作り上げているだけだと私への批判です。そんなの露骨な嘘です!

虚偽を説くことは、私がこれまでやったことも、これからもやらないことの1つです。しかし、私の説教に本当に信憑性がないのであれば、自分を自分で弁護するよりも、他の人々(私は個人的に知らない人たち)や他の権威ある組織に、私の代わりに話してもらいたいと思います。


※動画の男性は、フィリピン国立デ・ラ・サーレ大学の法律学教授/ 元司法評議会会員 Jose Mejia 弁護士

ラジオ、テレビ、SNSなどで説教するときはいつでも、私が言うことはすべて事実に基づいており、証拠に裏付けられており、聖書に基づいています。私は決して物語を勝手に作り上げません。私が話すことは、賢明で、関連性があり、啓発的であることを確認します。そうでなければ、評判の良い賞を与える団体は私の事業を認めなかったのですから。

これらの認識のいくつかを引用させてください。 2009年度の[第3回Open Mashable Awards]で、私のブログサイトesoriano.wordpress.com が [Most Educational to Follow・最も教育的] を受賞しました。 2006年度の[第4回 Gawad Amerika]で、私たちのプログラムAng Dating Daanが[Most Informative Religious Program・最も有益な宗教番組]として表彰されました。そして[2011年度の第10回Gawad Amerika]の間に、Ang Dating Daanは[Best Religious Program・宗教番組として最高位]として授与されました。

確かに、これらの認識は私たちに計り知れない誇りと名誉を与えてくれますが、神の御助けと導きがなければ、私たちはそれらのどれも達成できなかったことを私たちは知っています。それで、私たちは神にすべての名誉と栄光を捧げます。

Church of God International(国際的・神の教会)は聖書の真理に導かれている故、次のとおりの人々を私たちは覚悟しています。最後まで嘘を広めたり、人々を欺いたり、誤解させたり、人々を滅ぼすことに大きな関心を持っている人々がまだいることを私たちは知っていますから。

しかし、神の御助けがあれば、そのような人々が福音を広め、同胞に昔からの道、または神の命じられた良い道を歩くように勧めるのを妨げられることはさせません。この道こそが彼らを救済へ導くものですから。

神に栄光あれ!

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私たちが呼び求める際に、神が聴いて下さる確実な方法


「主の御名を祈り、呼び求めれば、既に救われている」という考えを発展させた人々がいます。そういうのは、真実ではありません。彼らは、自分たちに偽りの希望を与えているだけです。

真実というのは、祈り続けても、主の御名を呼び続けても、主の御心を果たさなければ、あなたは救われないということです。

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マタイ 7:21
わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。

天国に入るには、御父の御心を行なわなければなりません。つまり、あなたは御父の戒めを守り、御父があなたに望んでおられることをしなければなりません。

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コヘレトの言葉 12:13
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

人間の第一の義務は、カトリック教会などのさまざまな宗教団体の戒めや教えではなく、神の戒めに従うことです。あなたが従うのが彼らの発明した教えであるなら、例えば、ロザリオの9日祈祷祈ったり(ノベナ等)、出入り口から祭壇まで大聖堂の通路で跪いて歩いたり、偶像や彫像の前に跪いて崇拝したりするのなら、あなたは救われません。カトリック教徒が守っていたこれらすべての慣行は、偶像崇拝に該当し、聖書の神の教えとは正反対です。そして間違いなく、そのような慣行はあなたを天国に連れて行きません。

あなたが救われ、天国の相続人になるためには、神の戒めに逆らうのではなく、従わなければならないことを忘れないでください。偶像崇拝は、神の戒めに対する完全な反抗です。偶像や彫像は、例え、金や銀でできていたとしても、崇拝の対象にすべきではありません。

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使徒 17:29
そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

神格が金、銀、石で作られた偶像や彫像で表現できると考えたりか、推測したりするだけでは非常に間違っていることです。あなたがそれらの前に跪き、それらに花とロウソクを提供したり、そして、それらに祈るなら、それはさらに悪化した間違いになります。残念ながら、それらはまさにカトリックの司祭が彼らの信者に行うように教えていることです—彼らは偶像崇拝の実践を提唱しています。

偶像崇拝は神によって禁じられています。しかし、神が禁止することは、彫像を崇拝することに限定されていません。偶像や彫像の彫刻((作り出すこと)が含まれています。これは、神の戒めに逆らう行為でもあります。

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申命記 5:8
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

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申命記 5:9
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、

あなたが崇拝すべきのは本物の神であり、偽神ではありません。どうやら、偽りの神々を崇拝することは、神への憎しみの現れです。ですから、もし、あなたが神を愛していると公言するなら、あなたの崇拝、畏敬の念、そして献身を捧げるべき相手は本物の神です。

神が人々に行うことを禁じているのことを、それでもカトリックの司祭たちが熱心に推進しています。事実上、彼らは、創造主の代わりに生き物を崇拝するよう、人々に教えるので、彼らは神の真理を嘘に変える物を作っています。

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ローマ 1:25
それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

したがって、あなたの信仰と献身を、聖母マリヤ、使徒や天使のような、神が造りなさったあなたと同じ被造物仲間に向ける代わりに、あなたが信仰と献身を捧げるべき相手は創造主です。そして、あなたの祈りをこれらの誰かに向ける代わりに、あなたは祈りを創造主に向けるべきです。

しかし、主の御名を呼び求めるすべての人が天国に入れるのではなく、神の戒めを守る人だけが入ることを心に留めておいてください。言い換えれば、天国に入る資格を与えてくれるのは、神の教えと戒めに対するあなたの従順です。

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救われるには、宗教は必要なのだろうか?


今日の多くの説教者は無謀で無責任になっていて、彼らが人々に信じさせて、受け入れさせている教えが、聖書に書かれている主イエス・キリストの教えと一致しなくなっても、彼らはほとんど気にしません。

その一例は、「人が救われるために宗教はもはや必要ない。必要なのは、人がキリストを信じ、キリストを受け入れ、そして、称賛することで人は救われる」という彼らの教えです。

それは大きな嘘です!宗教がもはや必要ないというのは真実ではありません。実際、聖書は、主イエス・キリストが使徒たちに教えた純粋で汚れのない宗教について言及しておられています。これは、宗教が必要かつ重要であることを意味します。そうでなければ、主イエス・キリストはそれを教えになられなかったはずです。

しかし、すべての宗教が純粋で汚れていないわけではありません。(本物以外)は、不純物、汚物、及び、なりすましで満たされています。したがって、彼らの信者は聖なる者ではなく、代わりに偽善者の集まりに変えられてしまいます。彼らは、彼らの会員たちを救済に値するようにすることに失敗しているので、これらは無駄、または役に立たないと見なせる宗教です。聖書は、これらの宗教を無駄だと述べています。

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ヤコブ 1:26
自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

誰かが宗教的であるように見えても、彼または彼女は自身の舌を抑制せず、自身の心をさえ騙すような場合、その人の宗教は無駄または役に立たないと見なされます。

しかし、主イエス・キリストが使徒たちに教えた純粋で汚れのない宗教は、間違いなく無駄・無意味ではありません。したがって、拒否したり、重要ではないかのように見なしたりしてはいけません。

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ヤコブ 1:27
父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

純粋な宗教の特徴の1つは、それが未亡人や孤児を世話することです。そして、この宗教を実践する人々は、自分たちを世から目立たなくします。つまり、ギャンブル、飲酒、麻薬、その他の地上の問題などの悪徳には関与しません。彼らは、主イエス・キリストを受け入れ、主の教えに従っています。

主イエス・キリストを受け入れることは、口先だけの奉仕ではありません。キリストを受け入れるとき、あなたは主の御言葉と教えをもまた受け入れる必要があります。何故なら、主の教えを拒否することは、キリストを拒否することと同じだからです。

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ヨハネ 12:48
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

したがって、あなたが宗教、教会、そして、崇拝についての主イエス・キリストの教えを拒絶するならば、あなたは事実上、キリストを拒絶することになります。そして、救い主でおられるキリストをあなたが拒絶するならば、あなたは救われません。

キリストによって使徒たちに教えられた純粋で汚れのない宗教は、主イエス・キリストご自身によって建てられた教会にて実践されています。ですから、牧師や説教者たちが教会はもう必要ないと言っているのを聞いたら、主イエス・キリストが教会を建てたと聖書が私たちに告げているので、そのような説教者たちは無知に話していると確信できます。(マタイ16:18)

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マタイ 16:18
ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。

彼らは、主イエス・キリストが救いに何の役にも立たない何かを造ったことを暗示しているのでしょうか?そして、主イエス・キリストが確立したものを無効にする、または無効と宣言する権利を彼らに与えたのは何ですか?キリストが教会を建てられたという事実は、それが人間の救済において極めて重要な役割を果たしていることを意味するだけです。

さて、「キリストへの信仰だけで十分で、救済を達成するために宗教と教会はもはや必要ない」という彼らの愚かな主張を正当化するために、これらの説教者らはキリストと共に十字架につけられた泥棒の話を引用しています。彼らは、「泥棒はキリストを信じたばかりであり、泥棒はいかなる宗教も実践せず、そして、泥棒は教会に加わっていなかったのに、それでも彼は楽園を約束された。」というでしょう。

しかし、これらの牧師たちは、「泥棒が既に十字架にかけられて死にかけているので、キリストを信じること、特に主の御言葉を信じることが、あの泥棒に残された唯一出来ること」に気づいていません。

どうやら、泥棒の最期の時間が訪れる前に、泥棒は、彼らが十字架上にいる間に、主イエス・キリストによって発せられた御言葉を聞く機会を得ました。そして、泥棒が聞いたことに、泥棒は信じました。

つまり、泥棒のキリストへの信仰は、主の容貌ではなく、主から聞いた御言葉によって促されました。何故なら、キリストは打撲傷を負い、出血し、全裸であったため、その間のキリストの容貌について威厳のあるものは何もなかったからです。

ユダヤ人たちは、彼の衣服に多くのことをしました、そして、ヘブライ6:6によれば、彼らは主が非常に恥辱的な状況に置いたことを意味する「主に恥辱を与え・・・」。

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ヘブライ 6:6
しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

そして、あなたの裸体を公衆の前で公開することよりも侮辱的なことは他に何があるでしょうか?しかし、彼らが十字架上にいる間に、泥棒がキリストから聞いた御言葉のために、泥棒は主を信じたので、主は仰せられました、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(ルカ 23:42)

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ルカ 23:42
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

そして、泥棒に、主イエス・キリストは答えられました、“「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」 (ルカ 23:43)

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ルカ 23:43
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

泥棒の状態(彼はもうどうしようもなくて、十字架にかけられ、死にかけていた)と彼が生きるのに非常に僅かな時間しか残っていないことを考えると、泥棒は、もはや、教会に参加したり、宗教を実践したりする余裕がありませんでした。もし、泥棒が解放され、長生きする機会が与えられていたら、間違いなく、泥棒は主イエス・キリストによって建てられ、率いられた教会に加わり、彼の従者になったのです。。

しかし、例え、人々が「主イエス・キリストを受け入れた!」と主張したとしても、泥棒の道に訪れたうらやましい幸運は、主イエス・キリストの教えを故意に拒絶し、無視する人々によって決して、享受されたり、利用されたりすることは無いと理解しなければなりません。

神が私たち全員を祝福してくださいますように!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

アナタの魂に憩いを -赦し、忘れよう


多くの人が難しいと感じることの1つ、特に、自分を怒らせた相手が不正行為を犯したことで赦されるために後悔の兆候を示さない場合、または「ごめんなさい」と言うことさえ気にしない場合ですね。

多くの人にとって、「赦し」は自分の罪を認め、それを謝罪する人にのみ与えられると思われているかもしれません。しかし、その人が謝罪しなければ、その人が赦されないと言われています。

しかし、これは本当のクリスチャンたる者の態度であってはなりません。本当のクリスチャンは、たとえ、相手が魔法の言葉「ごめんなさい」を言わなかったとしても、自分に対して過ちを犯した人に常に赦しを与えます。

通常、人というのは、自分の愛する人、または配偶者、子ども、孫、兄弟姉妹、親戚、友人など、尊敬している人が罪を犯した場合に傷つきます。

ですから、その人たちがあなたの赦しを求めるためにあなたに近づかないという理由だけでは、あなたがその人たちに対して悪い感情を抱き続けるならば、それは、ますます非常に非クリスチャンです。あなたが本当にその人たちを愛しているなら、あなたはその人たちが土下座をし、あなたがその人たちを赦す前に、あなたに「ごめんなさい」と言う時を待つ必要はありません。

「ごめんなさい」の有無にかかわらず、あなたはその人たちを愛しているので、その人たちのために備えられる赦しを持つべきです。歌が言うように、「(私の)愛とは、あなたに「ごめん」だなんて言わせないわ。」

実際、あなたに間違いをした、隣人、クラスメート、同僚などの普通の知人であっても、いつでも赦す準備ができているはずです。そして、この態度を持つことは確かにあなたに有利に働きます。

神は、私たちに対して罪を犯した人々を私たちが赦すように私たちに命じられました。ですから、私たちに罪を犯した人々を赦すことで、実際に私たちの神への従順さを示しています。私たちは皆、罪を犯します。私たちは皆、故意または無意識のうちに過ちを犯します。また、私たちが怒らせたり、罪を犯す対象となった相手(神を含め)からも赦されたいと思っています。

事実、、私たち、神に私たちの違反を赦すように頼む度に、他の人が私たちに犯した違反を私たちが赦す義務もあります。

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マタイ 6:12
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

あなたに対して過ちを犯した人々を赦すことで、あなたのすべての欠点と違反から、神によってあなたもまた赦されます。どうやら、あなたが赦されることには、あなたも赦す必要があります。

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マタイ 6:14
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。

あなたを怒らせた人たちをすぐに赦せば、たとえ、謝罪がなくても、神のあなたへの赦しに値します。これは、別途に得られるあなたが経験するであろう感情的な安堵をもたらします。他の人を赦し、その人たちがあなたにした罪をあなたが忘れることで、あなたは、あなたの心を重い負荷から解放し、あなたの心の奥に平和を得られます。事実を受け入れましょう。あなたは他の人と対立している時、あなたも不快な気分になっています。

しかし、あなたが自分のプライドを勝ち取らせ、あなたに対して過ちを犯した人がまだあなたに「ごめんなさい」と言っていないという理由だけで、あなたが赦すことを拒否するなら、あなたは事実上、神の戒めに従っていないのです。そして、あなたの神への不従順は避けられない結果をもたらしてしまいます。

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マタイ 6:15
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

容易で簡潔です。あなたが、あなたを傷つけた人や、あなたに間違ったことをした人を赦すなら、御父は、あなたの違反をも赦します。しかし、あなたがあなたに罪を犯した人たちを赦したくないのなら、御父もあなたを赦しません。

御父の赦しに値するとしない物事の重要性をあなたが理解してくれることを願っています。御父の赦しに値するということは、楽園で永遠の至福に値するということです。しかし、あなたが他の人を赦すことを拒否したら、あなたもまた、御父によって赦されないということは、地獄での永遠の罰で運命づけられることを意味します。選択はあなた次第です。しかし、本当のクリスチャンは常に寛容であることを選ぶのが確かです。

神が私たち全員を祝福してくださいますように!

免責事項

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他の人が神への自分たちの信頼を何故、失うのか


私たち全員が信頼すべき存在があるとすれば、それは神以外に他になりません。私たちの同胞でもありません。

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エレミヤ書 17:5
主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。

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エレミヤ書 17:6
そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

聖書によれば、神に信頼と希望を抱く人は幸いであり、他の人に信頼を与える人は呪われています。明らかに、人間よりも、全能の神を完全に信頼する方が賢明です。一つめは、例えある人が偶然、あなたの近くにいたとしても、あるいはその人があなたの親友であったとしても、あなたはいつも仲間の人間を常に頼りにすることはできません。あなたと同じように、あなたの同胞にも特定の弱点や脆弱性があるからです。

時には、あなたが大切にし、信頼できる友達と見なす人々こそが、あなたを裏切る人々でもあります。実際、主イエス・キリストは、主が友人と見なした誰か、イスカリオテのユダからの反逆や裏切りを経験しました。

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詩編 41:9
私が信頼し、私のパンを食べた親しい友までが、私にそむいて、かかとを上げた。

主イエス・キリストは、愛情深くて、無私な友でおられ、主は、すでにご自身のためのパンをイスカリオテのユダに与えて下さいました。それにもかかわらず、それでもユダは主を裏切った。

あなたがあなたの信頼を任せた人が、あなたに背を向ける可能性が常にあるので、このことは本当に起こります。しかし、これは神には起こりません—神は、神に信頼を置く人々を決して裏切ることはありません。ですから、聖書は神を信頼している人を「祝福された者」と呼んでいます。

神を信頼しない人々は、神を本当に知らないと言えます—彼らは、神の道を知りません。彼らは、神の御心を知りません。彼らは、神が彼らに何をして欲しいのかを知りません。もし、それらを知っていれば、彼らは確かに、神と神の御言葉を信頼し、彼らは神の宣言と約束を守り続けます—神は、ご自身の御言葉に忠実でおられ、神は、ご自身のすべての約束を果たしておられています。

神からの非常に心強い約束を伴う告げの一つは、ヘブライ13:5に書かれています。

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ヘブライ 13:5
金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

他の人が持っているものに不平を言ったり欲しがったりする代わりに、私たちが持っているものに満足することを神は望んでおられています。そして、私たちが神の望んでおられていることに従うとき、私たちは神の約束「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」の成就を経験します。

貪欲になるのではなく、私たちが持っているものに満足するように神が私たちに仰せられたとき、事実上、盗んだり騙したりせず、代わりに真面目なお金を稼ぐために働くように私たちに神は教えておられています。これは、まさに私が私の人生で実践していることです。

宣教奉仕を始める前から、自分の個人的な必要品と大切な人たちの必要品を稼ぐために私は既に働いていました。私は、既に国際的な宗教団体を率いていますが、真面目でまともな方法で稼ぐために今も懸命に取り組んでいます。他の説教者とは異なり、私は神の御言葉を商品にすることは決して無く、宗教を一種の商売にすることもありません。私は、他の人の富を欲しがらず、私がするすべてのことに欺瞞を使いません。言い換えれば、私は神の御心に従って人生を送っています。

今、私は既に74歳ですが、私が欠けていたり、飢餓した例を覚えはありません。神の教えを守る人々を神は決して離れず、また、捨てないという証拠です。

私が叩き込もうとしているのは、次のとおりです。私たちの生活の中で、神を体験する機会を私たちに与えるのは、神への従順さです。神が私たちから離れたり、私たちを見捨てたりしないことです。そして、あなたがこれを経験するにつれて、あなたは神をより信頼するようになるでしょう。

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ヨハネ 一 5:14
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

神の御心に従った事柄を私たちが神に尋ねれば、神は私たちの言うことに耳を傾けてくださると確信出来ます。そして、私たちが神の戒め、神の助言、そして、神の教えを成就しているのならば、神は私たちに耳を傾けます。ですから、神が他の人々の祈りに耳を傾けないからという理由で、神への信頼を失ったと人々が語っているのを聞くなら、それは、ただ一つのことを意味します「彼らは神に不従順です。」

神は、神に従順な人々を捨てず、神への彼らの信頼が失われることを許可しないのだと常に忘れないでください。

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