「聖霊は単に活発な力だろうか?聖書はそうではないと述べる

8月 30, 2020 1 Comments


ほとんどの人は、御父と主イエス・キリストの神性について明確な理解を持っていますが、聖霊が同じ属性を持っているかどうか、そして私たちが御父と主イエス・キリストを礼拝し、崇める方法で聖霊をも礼拝し、崇めるべきかどうかには、多くの人は依然として不確かのままです。

実際に、宗教指導者でさえ、聖霊に対する見方は様々なのです。聖霊は「慰めて下さる者」だと言う集団もいれば、「単なる活発な力」であると信じる集団もいます。

しかし、聖霊が神格であるかどうかについて結論を下す前に、まず、この問題をより広い視点から検討することをお勧めします。

預言者イザヤの預言的宣言から始めましょう。

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イザヤ書 53:1
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

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イザヤ書 53:2
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

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イザヤ書 53:3
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

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イザヤ書 53:4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

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イザヤ書 53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

上記の聖句らでは、主イエス・キリストは「主の御腕」と呼ばれています。具体的には、主キリストは、神がイスラエル人をエジプトの国から救出して下さった神の御腕でした。

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申命記 5:15
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

強大な御手と御腕を伸ばされ、イスラエル人はエジプトの国から連れ出されました。私たち全員が「御腕」とは何か、「御手」とは何かを知っています。それらは人体の一部ですね。腕と手は、腕なしでは手が機能しないように互いに接続されています。

別の聖句で言われているのは、

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ルカ 11:20
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。

主イエス・キリストによると、主は「神の御指」を使って悪魔を追い出していました。キリストが悪魔を追い出すために用いられた「神の御指」は、何か他のものを表すために用いられたので、文字通りに取られるべきではありません。

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マタイ 12:28
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

神の御指は、神の霊または聖霊を象徴しています。つまり、主イエス・キリストが悪魔や悪霊を追い出すのに用いられたのが聖霊です。

私が打ち込もうとしている点はこれです。
【主イエス・キリストはことばであり、初めからは神とともにおられました。そして、聖書によれば、ことばは神です。】
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黙示録 19:13
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

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ヨハネ 1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

さて、召されていて、またはその名が「ことば」と「神の御腕」でおられる主イエス・キリストが神でおられるならば、私たちも聖霊を「主の御指」であると信じ、神という存在であると見なすなら間違っていません。神の一部なのです。神の「御腕」が神なら、神の「御指」も神でなければなりません。 (あなたが方程式に追いつくことが出来ていることを願っています。)そもそも、神の一部なのに、神ではない神の一部が存在することはあり得ません。

グアバの木のように、グアバではないグアバの木の部分はありません。その根から、その枝や葉、その果実まで、それらはすべてグアバです。私の議論には聖書の知恵があるので、私が言うのは単なる学者の視点ではありません。

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ローマ 11:16
初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

ここで、使徒パウロはオリーブの木を比喩的に使用しました。そして、彼はまたオリーブの木の部分に言及しました。その根、枝、葉、果物は、すべて一つの特定の木の構成要素であるため、共通の属性を共有します。

聖霊が神の一部で、「神の御指」であるという広大で、計り知れぬ、計り知れない力なのです。キリストは「神の御腕」でもおられ、「ことば」でもおられるので、キリストも神の一部なのです。繰り返しますが、「ことば」であり「神の御腕」である主イエス・キリストが神であるならば、「神御の指」である聖霊も同様に神であるということになります。聖書が神と呼ぶ「唯一の方」のすべての部分は神です。神のどの部分も、神ではない部分はありません。

理解しにくいとは思いません。エホバの証人の牧師と同じように、低能な牧師だけが、「聖霊は単に活発な力であり、神ではない」と言うでしょう。彼らは、聖霊を傷つけているだけでなく、聖霊を侮辱しています。

聖霊は神の一部であり、神様とは別な存在なので、私たちも聖霊に祈りをします。

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ユダ 1:20
しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、

確かに、クリスチャンたちが祈る対象として存在しない場合なら、ユダ(裏切り者ではない方)は、クリスチャンたちに聖霊に祈るように諭しません。私たちは、存在しない者に祈りません。御父、主イエス・キリスト、聖霊にはそれぞれの存在があるので、私たちは彼らに祈ります。御父とキリストとは、聖霊はまた異なる存在なので、私たちは聖霊にも祈ります。

それが、聖霊が使徒たちの元へ遣わされた理由、彼らが別の助け主(慰める者)を持つためという理由です。主イエス・キリストがまだ使徒たちと初期のクリスチャンと共におられた時、主は助け主(慰める者)でした。キリストが彼らとずっと長く一緒にいることはできなかったため、主が天に昇る前に、主は使徒たち、彼らに別の助け主(慰める者)を送るようにと御父に願って下さると告げておられました。

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ヨハネ 14:16
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

KING JAMES VERSION (英語版)
JOHN 14:16
And I will pray the Father, and he shall give you another Comforter, that he may abide with you forever;

助け主(慰める者) = 英語版では Comforter となっています。

実際に、現在の助け主(慰める者)は、聖霊であり、御霊とも呼ばれています。

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ヨハネ 14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

助け主(慰める者)として、聖霊は使徒たちに教えたり、主イエス・キリストが彼らに告げておられたすべてのことを彼らに思い起こさせました。

実際には、聖霊の神格を疑う理由は本当にありません。聖霊と主イエス・キリストはどちらも(ヘブライ語では Elohim)または(ギリシャ語ではTheotes)の一部であります。(ヘブライ語では Elohim)または(ギリシャ語ではTheotes)は「神々」を意味します。ですから、主イエス・キリストが神なら、聖霊も神です。

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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神様と主イエス・キリストは常に忙しい

8月 23, 2020 0 Comments


普通の人間として、私たちは時々、御父と主イエス・キリストが今天国で何をしているのか?何が彼らを忙しくしているのか?を知りたいと思いますね。

彼らは、私たちが地球上で行なっていることを単に見ているだけでしょうか?あるいは、彼らは人類に関係する非常に多くの差し迫った問題に対応するのに忙しいのでしょうか?

聖書のいくつかの聖句を参照することで、私たちはそれらに没頭している事柄についての考えられることがあります。主イエス・キリストから始めましょう。

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ヘブライ 8:1
以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私たちの大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、

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ヘブライ 8:2
人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。

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ヘブライ 8:3
すべて、大祭司は、ささげ物といけにえとをささげるために立てられます。したがって、この大祭司も何かささげる物を持っていなければなりません。

現在、主イエス・キリストは天国にいて、神の御座の右手に座しておられています。私たちが主キリストが主の王座に着席または着席しておられていると言うとき、私たちは主が単に文字通りずっと座っていて、何もしていないという印象を持つべきではありません。

王座に座るということは権力を持つことを意味します。したがって、主イエス・キリストは権力の座におられます。そして、主の役割は、成し遂げられる必要がある非常に多くの義務と責任を伴います。

主イエス・キリストが果たす義務の一つは、大祭司の義務です。主は私たちの大祭司であるため、天の祭壇で贈り物や犠牲をささげることを使命とされています。

イスラエル人の時代には、彼らは罪の赦しのために山羊、羊、牛をささげ、それらのささげ物を受け入れたのは祭壇で神にささげる大祭司でした。

キリスト教の神権時代において、その任務を遂行するのは主イエス・キリストです。何故なら主は私たちの大祭司だからです。天国には神様が建てておられた神殿と祭壇があります。そして、羊や牛ではなく、それは主イエス・キリストがご自身のしもべである彼らの祈り、賛美、賛美歌、誓い、そして感謝祭の供え物を神に示されたそれらはその祭壇の中にあります。

主イエス・キリストは私たちの神への仲介者としての役割を果たしておられています。主は私たちのためにとりなします。罪人である私たちは神に近づく価値がないので、私たちは神のとりなしを必要としています。しかし、キリストの仲介を通して、神は私たちの捧げ物を受け入れてくださいます。したがって、私たちの罪は許されています。

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ヘブライ 13:15
ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

KING JAMES VERSION
HEBREWS 13:15
By him therefore let us offer the sacrifice of praise to God continually, that is, the fruit of our lips giving thanks to his name.

英語版のその節の代名詞「彼(he)」は主イエス・キリストを指します。主によってと主を通して、私たちの賛美と感謝は神に届くことができます。何故なら、キリストは神と人との間の唯一の仲介者だからなのです。

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テモテ 一 2:5
神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。

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テモテ 一 2:6
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。

私たちが配偶者に与える愛、仲間への援助、家族への支援と世話、そして私たちが行なうすべての良い働きを含む、私たちのすべての犠牲と捧げ物は、主イエス・キリストによって神へ示されます。これらに加えて、聖書は同様に供え物とみなしている誓約、断食、献金、慈善事業、および神のしもべの祈りがあります。

大祭司の職務以外にも、主イエス・キリストが忙しいこともあります。

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ヘブライ 1:13
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

神が主イエス・キリストに「わたしの右の座に着く」ように仰せられた時、それは御父が主に名誉と権力の座に座らせることを意味します。主は天国と地球を王として支配する権威をキリストに与えておられています。

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マタイ 28:17
そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。

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マタイ 28:18
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

天と地のすべての力は主イエス・キリストに与えられました。主はすべての肉体を支配しています。

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ヨハネ 17:2
それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。

御父が主に与えた力には、人に永遠の命を与える力が含まれています。したがって、キリストの機能の一部は、永遠の命を楽しむために人間を救うことです。そして今まで、キリストはその意図の実現に向けて働いています。つまり、進行中の作業です。

他の人は、主が天国にいるときに人を救う機能をどのように果たすことができるのかと尋ねるかもしれません。

簡単です。主イエス・キリストは御使いたちを遣わし、主のしもべを害から解放します。主はまた、聖霊を遣わし、ここにいる地球上の人々に教え、導きます。そして主の御霊は、しもべらが主の福音をすべての人に広めるとき、神の説教者たちと一緒に行きます。

明確にしましょう—キリストは神の説教者たちだけと一緒に行き、すべての説教者たちと一緒にいるだけではありません。確かに、神の御言葉からお金を稼ぎ、宗教から儲かる商売をする説教者どもと主が一緒に行くことを期待しないで下さい。主は、人々が救われて永遠の命に値するように人々を神に戻すという誠実な意図を持って、忠実に福音を教える説教者たちと一緒になりますから。

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マタイ 28:19
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

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マタイ 28:20
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

キリストは、彼らが主の教えを説教するために出かけて行った最後の使徒たちと一緒にいたであろうという保証を、初期の使徒たちに与えました。キリストの御約束の成就は、彼らが福音を説教するときに、キリストの御霊の導きを感じたパウロやバルナバのような後期の使徒たちによっても体験されました。

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ローマ 16:25
私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、

謙虚さはさて置き、私が説教するとき、私がさまざまな人々の信仰の質問に答えるとき、そして、私がキリスト教の信仰を擁護するときはいつでも、私はキリストの御霊の導きを証言することもできます。

もう若くないので、忘れがちになることもあります。引用したい聖書の特定の書の特定の章や節を簡単に思い出せないことが時々ありました。しかし、それが起こるときはいつでも、キリストの御霊がすぐに私の助けて下さり、非常に迅速に、私が引用したい聖句を頭に浮かび上がらせてもらっています。

いつも、私に与えられた状況にて私が人々に伝えなければならない主の御言葉を、私に供給するのに、主の御霊は決して失敗しません。そして、私は心の中で、すべての国で弟子を作るという主の命令を果たすとき、間違いなくキリストの御霊が私と共にいることを知っています。

主イエス・キリストは常に主の御約束「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」に忠実であります。そして、世界がまだ終わっていないので、その御約束は今でもまだまだ有効です。汚れのない神の教えを教える説教者たちがキリストの御霊に伴われて導かれることを期待できます。

主イエス・キリストは人々をご自身に近づけたいので、主の説教者たちが主の御言葉を人々に教える際に一緒に行きます。人々が一つの真の信仰を見つけることができるように道を見つけだして下さるのはキリストなのです。

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ヨハネ 12:32
わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」

キリストがまだ人の姿で地上におられた時、主はイスラエルでのみ説教することができました。主の人体ができることには限界があったため、主はフィリピンなどその当時、既に存在していた世界の他の部分に到達することができませんでした。主は同時にいくつかの場所にいることはできませんでした。

主がイスラエルで説教していた当時、フィリピンはすでに存在していたと言われています。文書に基づいて、イフガオのフィリピンの棚田は今から3000年前に建設されたからです。キリストが2000年前に地上で説教しておられたため、主が説教していた当時でも、フィリピンのイフガオの棚田が長い間に既に存在していたことを意味します。 


しかし、天に昇る前に、主の肉体が輝かしい霊的な体に変わったとき、すべての人を主に引き寄せることを約束して下さいました。その変化が実現されたとき、主は制限によってもはや妨げられませんでした。主は実際にはご自身ではなく、主が送る説教者の手段を通して、地球上のどこにいてもどんな人にも近づくことができました。そして、主は人々を主の教えに引き付けたり、引き寄せたりする原動力なのです。

非常に明確に、主イエス・キリストは天国で席を外しているのではありません。主はたくさんのことを担当するのにとても忙しいなのです。先に述べたように、主イエス・キリストは天と地を支配しておられています。これは、主がそのしもべたち、さらには天使、智天使、 熾天使たちさえをも支配していることを意味します。

天国の御使いたちは、主の指揮下にあります。実際、主は救いの相続人となる者たちを守るために御使いたちを地球に遣わしました。

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ヘブライ 1:14
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。

天使たちは御霊を仕えていて、彼らは事故から神の民を救うように任命されています。それが彼らが守護天使と呼ばれる理由です。あなたが神に属するのなら、あなたが神を恐れるなら、あなたには守護天使がいます。

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詩編 34:7
主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。
私たちは天国で起こるすべてを正確に知っているわけではありませんが、主イエス・キリストが常に非常に忙しいことは確かです。

御父はどうでしょう、御父は同じように忙しいでしょうか?確かに、御父の方が忙しいのです。

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使徒 17:26
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

御父は、人間が住むために地球上のすべての国を作りました。それだけでなく、御父は私たちが生きている理由でもおられています。

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使徒 17:28
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。

神は私たちの創造主です。私たちは神に私たちの生活と存在を借りているのです。私たちは神のために存在します。神は私たちの生活を維持しておられています。神は私たちが生き残るために私たちに必要なものすべてを私たちに提供して下さっています。

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使徒 17:25
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

神は人生における私たちのすべての必要品の提供者なのです。神は私たちが、私たちの食糧不足に陥ることはないようにと考えています。したがって、神は作物を成長させ、豊かに収穫させます。神は私たちの空腹を満たすために海の魚を増やします。

神は自然の複雑な構造を作り、私たちが新鮮できれいな空気と水、そして全体として健康な環境を持っている私たちの生存に不可欠な生態学的調和を維持してておられています。主イエス・キリストが私たちの魂の救いを担当している間、御父は私たちが必要とするすべての物事の偉大な提供者です。

御父はまた、誰が生き、誰が死ぬかについて非常に厳しい決定を下す方でもあります。私たちは、私たちの生活が神の御手にあることを知っています。

神はまた、たとえ人々の要求がたまたま自己中心的だったり、他の人の祈りと矛盾しているとしても、人々の祈りと懇願に取りかかって下さっています。実際、人々はしばしば二つの対照的なことを求めますからね。

例えば、農夫は自分が豊富な収穫を得るために自分の作物が育つように雨が降ることを祈るかもしれません。一方、同じ村に住んでいる製塩業者は、雨水が塩を溶かしてしまうので、雨が降らないようにと祈っています。彼は海の塩の生産者なので、雨の代わりに、彼の塩水が乾燥し、結晶化し、できるだけ早く収穫されるように、太陽の灼熱の熱を祈ります。私たちは、御父が人間だけの祈りに取り組む際に直面する困難を想像することができます。

繰り返しますが、私たちは天国で実際に何が起こっているのか正確にはわかりませんが、聖書は御父と主イエス・キリストがそこにいかに忙しいかを垣間を見せてくれます。そして、彼らを忙しくさせているのは、すべて人間の利益のためであると確信しています。

神と主イエス・キリストにすべての栄光を!

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憎まれてる真っ只中に、神に喜ばれることをしてみませんか?

8月 16, 2020 0 Comments

私が説教する主イエス・キリストの福音聞く機会を得た真実の探求者たちは、必然的に神に仕え、Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)の一部となるという強い欲求を育みます。それだけではなく、彼らが感じる圧倒的な喜びの故に、彼らはまた、彼らが学んだこと、彼らが見つけた真の教会に加わることを彼らの愛する人たちにも学べて、加わって、そして一緒に神様に仕えられることを望んでいます。

残念ながら、時々、物事は常に彼らが望むものに従って起こるとは限りません。彼らの愛する人たちが宗教を変えるという考えに抵抗するだけでなく、私の説教するキリスト教の教義に耳を彼らが傾けることを彼らの愛する人たちが妨げる場合もあります。

更に悲しいのは、彼らの愛する人の異議と抵抗は、教義の問題などの確固たる根拠に基づいているのではなく、主に感傷性に基づいているということです。真実の探求者である彼らの両親や祖父母は、聖書に反したり、誤った信念や慣習に関係なく、人生で慣れたからだけで彼らに導入された宗教に固執することを望んでいます。

これらの真実の探求者たちは、このような人々や愛する者たちも救われて欲しいので、彼らの愛する人たちが示す反応で、彼らが彼らの友人や家族を神の教会に加わるように説得する方法の苦境に直面しています。

これは実際、多くの人が経験する両刀論法です。しかし、聖書は愛する人を神に仕えるように導く方法を教えているので、それほど大きな問題ではありません。

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ペトロ 一 3:1
同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

聖句によると、妻は夫の回心に役立ちます。彼女は言葉を使わなくても彼を信仰に導くことができますが、それは善行をすることによってのみです。彼女の善行は十分すぎるほど語ることができるので、妻は夫を説得するために説得力のある言葉を使用する必要はありません。格言が言うように、行動は言葉よりも雄弁です。

神の教会で教えられている主イエス・キリストの教えへの従順のために妻に起こっている肯定的な変化を夫が見ると、何も言わなくても、妻が加わった教会が本当に神のものだと夫は快く信じます。夫は最初に好奇心を育て、後に神の教会に参加することに興味を持ちます。

与えられた例は、妻がどのように夫を神に導くことができるかを示していますが、これは家族の他の一員、更には友人や同僚にも適用できます。

あなたが教会で学んだ教えを実践することによって、彼らがあなたに与えるかもしれない冷たい扱いにもかかわらず彼らに良い行いをすることによって、彼らはあなたが神の教会に加わることにおいて間違っていないことを心の中で知ることになるでしょう。そして、あなたがそれを知る前に、彼らはあなたの神への奉仕においてあなたと共にいます。ですから、善行をすることに飽き飽きしないでください。

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ペトロ 一 2:12
異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

あなたが良いことを続け、あなたについて否定的なことを言っても、人々を親切に扱い続ければ、神を認めない人でも、神を認めることを学ぶ時が来るでしょう。彼らはまた、神を賛美します。

同じ苦境を経験している人々への助言の一つ:他の人々の拒絶を恐れないでください。彼らの意見が神に仕えるというあなたの願望を妨げられないようにしてください。あなたが持つ必要があるのは、使徒たちが持っていたある種の信念です。そして、あなたの一番の関心事は、他の誰よりも先に神に従うことです。

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使徒 5:29
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。

私たちの従順は、優先的に神に与えられるべきであり、私たちの家族や友人ではなく、金持ちや有力者ではなく、他の誰にも与えられるべきではありません。神は私たちの創造者です。神は私たちの命の所有者です。それだけでも、私たちが絶対的な従順、完全な献身、そして留保なしの愛を神に与えることは適切なことです。

配偶者、両親、兄弟姉妹、友人を愛することには何の問題もありません。彼らの世話について何も問題はありません。しかし、神へのあなたの愛は彼らへのあなたの愛よりも遥かに大きいことを取り計らうようにすることです。他の者への愛は、神への愛に次ぐものです。私たちは心を尽くし、魂を尽くし、心を尽くして神を愛すべきです。

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マタイ 22:37
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

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マタイ 22:38
これがたいせつな第一の戒めです。

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マタイ 22:39
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

ですから、もしあなたが神に仕えたいのなら、あなたが神の召しに耳を傾けたいのであれば、恐れることは何もありません。何も邪魔してはいけません。あなたが本当に神を愛しているなら、他に何も問題はないはずです。

他の人が言うことに恐れないでください。そもそも、あなたは彼ら全員を満足させることができないので、あなたが何をするにしても、彼らは常に何か言うことを持っています。だから、あなたは神に喜ばれることをするのが良いのです。

そして、もしあなたが神の教えに従い、そして、あなたが神の教会の管轄下であなた自身を差し出すのなら、それは神にとって喜ばしいことです。そして、一旦、神の教会の中に入ると、あなたは絶えず善行をするように教えられ、それらは、あなたの愛する人たちを扱うときに適用することができます。

そして、神の御助けを借りて、彼らがあなたがどのように良くなったのかを見るとき、あなたが受け入れた信仰を彼らに受け入れさせることはそれほど難しいことはありません。

神の祝福がありますように!

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クリスチャンたちは礼拝堂や神殿を建てるように命じられていない

8月 08, 2020 , 0 Comments

神が礼拝堂のように人の手で作られた構造物に住まわれないのなら、なぜ神はハガイ1:4-9に書かれているように、家を建てるようにイスラエル人に命じたのですか?そして、礼拝堂や神殿を建てないのであれば、どこで神を礼拝しますか?

これらは、「神が信者に神のために家を建てるように命じられた、そして、この家は礼拝堂または神殿であるかもしれない。そして、それらは神を礼拝するのに、唯一の正当な場所だ。」という考えを持っている人々からの質問です。

ソロモンが神のために神殿や家を建てたことは事実です。最初にそれを構築することを計画したのはダビデでしたが、この計画はソロモンの治世中に実現されました。

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列王記上 6:1
イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。

非常に具体的な詳細は、聖句によって提供されています。ソロモンはイスラエル人がエジプトを出てから480年後に主の家を建て始めました。それはイスラエルの王として彼の統治の4年目でした。そして、それはヘブライ暦の2番目の月である月「Zif」から始まった。

その建設が完了すると、ソロモンはそれを神に捧げました、そして、その間に彼らはそこに神の存在を感じたという説明がありました。

それ以来、神はモーセを通してイスラエル人に、彼らが神を礼拝したり、十分の一を払ったり、彼らの焼かれた供え物やいけにえを捧げたりする時はいつでも、神の家に行くように命じられました。

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申命記 12:5
ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

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申命記 12:6
あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。

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申命記 12:7
その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

それは彼らが従わなければならない法律でした。彼らは、彼らの義務と神への誓いを果たすために、エルサレムのソロモンによって建てられた主の神殿までずっと行かなければなりませんでした。

しかし、彼らの一部がエルサレムから遠く離れて住んでいた人々もいたことで、彼らが提供するのが彼らの農産物の十分の一である場合、野菜や彼らの作物の果物や他の生鮮品など、彼らはそれらの品物を神殿まで持参する必要はありませんでした。代わりに、それらをお金に変換する必要があります。つまり、最初にそれらの品物を販売する必要があり、それらの商品の販売から調達する金額をエルサレムに持ち込む必要があります。

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申命記 14:24
もし、道のりがあまりに遠すぎ、持って行くことができないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、

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申命記 14:25
あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶ場所に行きなさい。

残念なことに、時が経つにつれ、イスラエル人は礼拝し、祈り、供え物を主に供えていた主の神殿または家の世話を怠りました。彼らの過失故に、主の家は捨てられて荒廃しました。

イスラエル人の過失による神の家の破壊という周囲の状況は、ハガイ1:4-9での神の宣告の背後にありました。

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ハガイ書 1:4
「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住むべき時であろうか。

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ハガイ書 1:5
今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

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ハガイ書 1:6
あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ。

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ハガイ書 1:7
万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。

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ハガイ書 1:8
山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。主は仰せられる。

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ハガイ書 1:9
あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。・・万軍の主の御告げ。・・それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。

主は、イスラエル人が実際に離れ離れになっているのを見ても気にならなかったので、神の家を当たり前のようなものだと見なした一方、それぞれの彼ら住居は細かく建設され、よく管理されてたことに対する神の憤りをイスラエル人に表明しました。

最終的に、イスラエルのこの神殿または宮は破壊されました。主イエス・キリストご自身は、マタイ24:15でその破壊を予言しました。

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マタイ 24:15
それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

主イエス・キリストは、預言者ダニエルによって話された、聖地での忌まわしい荒廃について言及しました。この予言は、エルサレムの神殿の差し迫った破壊に言及していました。主イエスキリストによると、それは完全な破壊となり、「石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。 」と。

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マタイ 24:1
イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。

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マタイ 24:2
そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

私たちの考えが「神を礼拝することは神殿や礼拝堂でしかできない」としたら、エルサレムの神殿で起こったことのように破壊されたとしたらどうでしょうか?

神殿が全滅したからといって、神を礼拝することができなくなったということですか?そうではないはずです。真実は、神殿や礼拝堂に行かなくても神を礼拝できることです。

主イエス・キリストがサマリア人の女性がヤコブの井戸にて彼女と会話したときに彼女に言及したことにより導かれましょう。

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ヨハネ 4:20
私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」

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ヨハネ 4:21
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

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ヨハネ 4:22
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

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ヨハネ 4:23
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

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ヨハネ 4:24
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

主イエス・キリストはサマリヤ人の女性に、神を礼拝するために山やエルサレムに行く必要がない時が来ると告げられました。そして、真の礼拝者が霊と真理で御父を礼拝する時も来ること。主イエス・キリストが話していた「時」こと、サマリア人の女性と話している間、まさにその瞬間にその予言が始まりました。

つまり、その瞬間に、神を礼拝したい人は、自分の家でも神を礼拝できるので、礼拝堂や神殿などの指定された場所に行く必要が無くなります。

そして実際には、神を礼拝するとき、スタジアムやコロシアムのような大きな会場で人々を強制的に集める必要はありません。主イエス・キリストによると、神の御名で2人または3人が集まれば、神は彼らの真ん中におられる、と。ですから、その場所とそこに集まった人々の数に関係なく、彼らが神の御名で集まっている限り、神は彼らの真ん中におられます。

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マタイ 18:20
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

これは、彼らが主イエス・キリストの教えへの信仰のためにユダヤ人によって迫害されている間に、使徒たちによって満たされました。当時の状況は彼らの安全を保証することでは無かったので、神殿に行くのではなく、彼らは、彼らの集まりを窓や扉が閉ざされた彼らの家にて保持しただけでした。そして、確かに、主イエスは彼らの真ん中に来られました。

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ヨハネ 20:19
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

状況が彼らと他の人々の安全を危うくしないならば、初期のクリスチャンは神殿に集まりました。しかし、状況が彼らの生活に脅威をもたらすならば、彼らは兄弟たちの家にだけ集まっていました。

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使徒 20:7
週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。そのときパウロは、翌日出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。

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使徒 20:8
私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんともしてあった。

これは、兄弟たちが神殿ではなく、家に集まり、使徒パウロの説教を聞いた時です。

主イエス・キリストが来られたとき、以前にイスラエル人によって信じられ、観察されていた多くのことを主キリストが修正して下さったことを理解する必要があります。それらの1つは、使徒パウロによって使徒17:24で言及されました。

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使徒 17:24
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。

=====

上記の聖句で、使徒パウロは、神は天と地の主であり、世界とその中にあるすべての創造主でありため、神は人の手によって造られた神殿にとどまらないと仰せられました。しかし、マナロ氏のイグレシア・ニ・クリスト(INC)は、使徒パウロが宣言したことに同意しないようです。彼らの公式出版物で表明されているように、彼らは神の霊が礼拝堂や礼拝所に宿っていると信じているからです。

:英文:
We are summoned by the Lord God to serve Him in the Body or the Church of Christ. We have to worship Him in the house where His Spirits dwells, like the modern house of worship pictured above.

:翻訳:
私たちは主なる神に召され、からだまたはキリストの教会で彼に仕えます。私たちは、上の写真に写された現代の礼拝の家のように、彼の霊が住む家で彼を崇拝しなければなりません。

=====

聖書の神の御言葉を根拠として使用すると、マナロ氏のINCは、神の霊が礼拝の家に宿っていることを、彼らにとってどれほど壮大に見えても、かなり誤解していることは明らかです。

確かに、過去、特にイスラエル人の時代には、神の御霊が集まりに来られ、家や神殿に住まわれました。しかし、主イエス・キリストが来られたとき、集会はもはや神殿や礼拝所に限定されなくなりました。主イエス・キリストが来られた時、神権に変化があったことを忘れないでください。モーセから、今や神権を握っているのは主イエス・キリストです。ですから神権に変化があったので、法律にも変化がありました。

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ヘブライ 7:12
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、

それが、主イエス・キリストが初期のクリスチャンたちに、神を崇拝して集会を開催するための礼拝堂や寺院を建てるように指示したことを述べている節が聖書にない理由です。

神権が変更された時、契約も変更されました。

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ヘブライ 8:7
もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。

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ヘブライ 8:8
しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。

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ヘブライ 8:9
それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。

神は新しい契約を作りました、そして、この新しい契約は主キリストが地上に来られたときに主イエス・キリストによってもたらされました。しかし、純粋に肉体的な条例であったモーセの神権期間中の契約とは異なり、主イエス・キリストの神権の下の契約は、より霊的な側面にあります。

ですから、キリスト教の神権時代において、礼拝やその他の集会が開かれるべき場所はもはや問題ではありません。事実、1世紀後半のクリスチャンたちは兄弟の家にも集まりました。

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ローマ 16:3
キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。

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ローマ 16:5
またその家の教会によろしく伝えてください。私の愛するエパネトによろしく。この人はアジヤでキリストを信じた最初の人です。

プリスカとアクラは夫婦でした。二人とも神の従者でした。そして、彼らの家は教会の集まりの場として役立っていました。

ラオデキアの兄弟たちは、同様に別の兄弟の家に集まりました。

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コロサイ 4:15
どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。

クリスチャンたちは神殿や礼拝堂を建てるように命じられていません。何故なら、彼らは家の中や借りた場所でさえ集会を開くことができるからです。実際、キリストの使徒の間には、誰も神殿や礼拝堂を建てず、兄弟たちに建てるようにとも指示されませんでした。彼らは、主イエス・キリストが仰せられたように、真の礼拝者はもはや長い旅をして、神を礼拝するために指定された場所に行く必要がないと仰せられました。彼らは、霊と真理で父を礼拝するべきだからです。

主イエス・キリストの特定の布告が現在より適切であると言えます。特に、今時、人類全体が危機を経験しています。

汎流行があります。人々はウイルスの伝染を防ぐために自分の住居から出ることを思いとどまり、他の国では公共検疫と閉鎖が実施されています。

このような状況を考えると、礼拝堂や礼拝所に行くよりも、それぞれの家で神を礼拝するほうが賢明だと思います。

Members Church of God International(国際的・神の教会の会員たち)に関係ある限り、閉鎖、公共検疫、政府による旅行制限にもかかわらず、私たちはまだまだ神を礼拝し、会衆の一定の集まりを行なうことができます。会員たちが安全であるそれぞれの住居にです。私たちは、現代の通信技術を使用して集まることができます。

このようにして、私たちは政府の政策を順守することができ、同時に主イエス・キリストが仰せられたこと・・・

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ヨハネ 4:23
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

を実現することができます。 アーメン!

免責事項

この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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真の礼拝は教会の集まりに出席することを越えるもの

8月 07, 2020 0 Comments

神を礼拝することは、霊と真理をもって神を礼拝することです。そして、霊と真理に主を礼拝することは、教会の集まりに出席すること、主の為に賛美歌を歌うこと、そして礼拝堂または礼拝の家の中で主の教えを聞くことだけに限定されていません。
これらの行為が神を礼拝し奉仕することの完全な意味を構成しない場合、どうすれば神を正しく礼拝し奉仕できるでしょうか。

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ローマ 12:1
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

神を礼拝して仕える正しい方法は、私たちの体を生ける供え物として神に捧げることです。これは私たちの霊的な礼拝行為でもあります。

明らかに、クリスチャンに教えられている礼拝の種類は、旧約聖書のイスラエル人が実践していた礼拝の種類とはまったく異なります。当時は、神を礼拝する人々は、既に虐殺されていた牛、羊、子羊、山羊等を捧げなければなりませんでした。そして、それらの獣の血は神殿にまき散らされました。

しかし、キリスト教の神権時代において、私たちクリスチャンが神に供えるすべきものは私たち自身の体です。私たちの体は、私たちの生ける供え物と、神への合理的または霊的な礼拝としての役割を果たします。クリスチャンが神に捧げるすべきなのは金銭的な寄付だけではありません。私たちが神に捧げるべきであるもっと重要な供え物があり、それは私たち自身の体です。そうすることで、私たちは神を正しく礼拝することができます。

問題は、私たちの体を神に受け入れられる神聖な生ける犠牲にするにはどうすればよいかということです。

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ローマ 6:13
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

私たちは自分の体のそれぞれの部分を神の義の道具として使用し、不義や罪の道具として使用していないことを確認しなければなりません。私たちは、ヨブが自分の時代に行なったように、私たちの体を同胞のために善行に使う必要があります。

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ヨブ記 29:15
私は盲人の目となり、足なえの足となった。

つまり、苦痛を抱えている人々に救いの手を差し伸べる場合、または視覚障害者が行きたい場所にその人を導く、または案内するなどの身体障害者に対するサービスを提供する場合には私たちは既に神を礼拝することができます。つまり、体を使って他の人に仕える度に、自動的に神を礼拝しているのです。

しかし、例えば、指を使って銃の引き金を引いて人を殺したり、舌を使って他人を騙す場合や、妻や子どもを殴ったり平手打ちしたりする場合は、あなたは自分を不義の道具にしています。事実、あなたはサタンを喜ばせることをしているので、あなたはサタンに仕えていることになります。

私が指摘したいのは、例え、礼拝堂にいなくても、私たちは神にまだ礼拝し、仕えることができるということです。私たちは、家にいても、職場にいても、学校にいても、道通りにいても、他の場所にいても、神を礼拝し、仕えることができます。

使徒パウロによると、地球の創造主であり、神様である神には、人の手によって直接、仕えることができません。

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使徒 17:25
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。

それにもかかわらず、私たちは、同胞のために義を行なうことにおいても、私たちの手だけでなく、全身を用いて神に霊的奉仕をすることができます。

今時、全世界は非常に困難な時期を経験しているので、今は私たちが神の義の道具になることができる非常に良い機会だと思います。確かに多くの人が物質的な助けを必要としていることは事実ですが、それでも多くの人が、聖書の神の御言葉からしか得られない祈りと慰めと安心の御言葉を必要としています。神の御助けがあれば、私たち自身なりに出来る少ししかないことでも、私たちが他の人にこれらのことを提供する器になることができると私は確信しています。アーメン。

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