「聖霊は単に活発な力だろうか?聖書はそうではないと述べる

8月 30, 2020 0 Comments


ほとんどの人は、御父と主イエス・キリストの神性について明確な理解を持っていますが、聖霊が同じ属性を持っているかどうか、そして私たちが御父と主イエス・キリストを礼拝し、崇める方法で聖霊をも礼拝し、崇めるべきかどうかには、多くの人は依然として不確かのままです。

実際に、宗教指導者でさえ、聖霊に対する見方は様々なのです。聖霊は「慰めて下さる者」だと言う集団もいれば、「単なる活発な力」であると信じる集団もいます。

しかし、聖霊が神格であるかどうかについて結論を下す前に、まず、この問題をより広い視点から検討することをお勧めします。

預言者イザヤの預言的宣言から始めましょう。

JAPANESE SHINKAIYAKU SEISHO
イザヤ書 53:1
私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。

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イザヤ書 53:2
彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

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イザヤ書 53:3
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。

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イザヤ書 53:4
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

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イザヤ書 53:5
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

上記の聖句らでは、主イエス・キリストは「主の御腕」と呼ばれています。具体的には、主キリストは、神がイスラエル人をエジプトの国から救出して下さった神の御腕でした。

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申命記 5:15
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸べられた腕とをもって、あなたをそこから連れ出されたことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は、安息日を守るよう、あなたに命じられたのである。

強大な御手と御腕を伸ばされ、イスラエル人はエジプトの国から連れ出されました。私たち全員が「御腕」とは何か、「御手」とは何かを知っています。それらは人体の一部ですね。腕と手は、腕なしでは手が機能しないように互いに接続されています。

別の聖句で言われているのは、

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ルカ 11:20
しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。

主イエス・キリストによると、主は「神の御指」を使って悪魔を追い出していました。キリストが悪魔を追い出すために用いられた「神の御指」は、何か他のものを表すために用いられたので、文字通りに取られるべきではありません。

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マタイ 12:28
しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。

神の御指は、神の霊または聖霊を象徴しています。つまり、主イエス・キリストが悪魔や悪霊を追い出すのに用いられたのが聖霊です。

私が打ち込もうとしている点はこれです。
【主イエス・キリストはことばであり、初めからは神とともにおられました。そして、聖書によれば、ことばは神です。】
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黙示録 19:13
その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。

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ヨハネ 1:1
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

さて、召されていて、またはその名が「ことば」と「神の御腕」でおられる主イエス・キリストが神でおられるならば、私たちも聖霊を「主の御指」であると信じ、神という存在であると見なすなら間違っていません。神の一部なのです。神の「御腕」が神なら、神の「御指」も神でなければなりません。 (あなたが方程式に追いつくことが出来ていることを願っています。)そもそも、神の一部なのに、神ではない神の一部が存在することはあり得ません。

グアバの木のように、グアバではないグアバの木の部分はありません。その根から、その枝や葉、その果実まで、それらはすべてグアバです。私の議論には聖書の知恵があるので、私が言うのは単なる学者の視点ではありません。

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ローマ 11:16
初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。根が聖ければ、枝も聖いのです。

ここで、使徒パウロはオリーブの木を比喩的に使用しました。そして、彼はまたオリーブの木の部分に言及しました。その根、枝、葉、果物は、すべて一つの特定の木の構成要素であるため、共通の属性を共有します。

聖霊が神の一部で、「神の御指」であるという広大で、計り知れぬ、計り知れない力なのです。キリストは「神の御腕」でもおられ、「ことば」でもおられるので、キリストも神の一部なのです。繰り返しますが、「ことば」であり「神の御腕」である主イエス・キリストが神であるならば、「神御の指」である聖霊も同様に神であるということになります。聖書が神と呼ぶ「唯一の方」のすべての部分は神です。神のどの部分も、神ではない部分はありません。

理解しにくいとは思いません。エホバの証人の牧師と同じように、低能な牧師だけが、「聖霊は単に活発な力であり、神ではない」と言うでしょう。彼らは、聖霊を傷つけているだけでなく、聖霊を侮辱しています。

聖霊は神の一部であり、神様とは別な存在なので、私たちも聖霊に祈りをします。

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ユダ 1:20
しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、

確かに、クリスチャンたちが祈る対象として存在しない場合なら、ユダ(裏切り者ではない方)は、クリスチャンたちに聖霊に祈るように諭しません。私たちは、存在しない者に祈りません。御父、主イエス・キリスト、聖霊にはそれぞれの存在があるので、私たちは彼らに祈ります。御父とキリストとは、聖霊はまた異なる存在なので、私たちは聖霊にも祈ります。

それが、聖霊が使徒たちの元へ遣わされた理由、彼らが別の助け主(慰める者)を持つためという理由です。主イエス・キリストがまだ使徒たちと初期のクリスチャンと共におられた時、主は助け主(慰める者)でした。キリストが彼らとずっと長く一緒にいることはできなかったため、主が天に昇る前に、主は使徒たち、彼らに別の助け主(慰める者)を送るようにと御父に願って下さると告げておられました。

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ヨハネ 14:16
わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

KING JAMES VERSION (英語版)
JOHN 14:16
And I will pray the Father, and he shall give you another Comforter, that he may abide with you forever;

助け主(慰める者) = 英語版では Comforter となっています。

実際に、現在の助け主(慰める者)は、聖霊であり、御霊とも呼ばれています。

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ヨハネ 14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

助け主(慰める者)として、聖霊は使徒たちに教えたり、主イエス・キリストが彼らに告げておられたすべてのことを彼らに思い起こさせました。

実際には、聖霊の神格を疑う理由は本当にありません。聖霊と主イエス・キリストはどちらも(ヘブライ語では Elohim)または(ギリシャ語ではTheotes)の一部であります。(ヘブライ語では Elohim)または(ギリシャ語ではTheotes)は「神々」を意味します。ですから、主イエス・キリストが神なら、聖霊も神です。

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この日本語翻訳は、私たちの通訳者たちの全力を尽くし最高度の注意をもって翻訳されました。しかし、ControversyExtraordinary.com は諸要因により翻訳された情報の正確さを保証しません。本来の言語である英語版と日本語版に不一致があった場合でも、本来の英語版が常に優勢です。

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